ぞっこん まとめ

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ここはブログ「五千円です」に掲載したTS長編小説をまとめて置いてあります


ぞっこんショット! 登場人物 & 用語
ぞっこんショット! 1 〜プロローグ(1-1〜1-4)
ぞっこんショット! 2 〜入れ替わり生活とその相棒(2-1〜2-8)
ぞっこんショット! 3 〜デートという名の部活動?(3-1〜3-6)
ぞっこんショット! 4 〜奨励祭開催。そしてエピローグへ(4-1〜4-4)















登場人物


鷹広(たかひろ)
・本編主人公のへたれ男。先輩の夕香に片思い中
・ひょんなことから同級生の藤と身体が入れ替わってしまう


四ノ宮 藤(しのみや ふじ)
・夕香の幼馴染で写真部員の無駄に明るく元気な少女
・ひょんなことから同級生の鷹広と身体が入れ替わるも、すぐに順応し好き放題する


坂上 夕香(さかがみ ゆうか)
・変人と名高い写真部部長。見た目は綺麗なだけにいろいろ残念な少女


佐藤和弥(さとう なごや)
・藤と鷹広に憧れる後輩


大和(やまと) 藤のクラスメイト
武蔵(むさし) 鷹広のクラスメイト


用語
雨樋学園(あまどいがくえん):鷹広たちの通う学校
奨励祭(しょうれいさい):雨樋学園で5月下旬に行われる文化祭




ぞっこんショット!




 いきなりでなんだが、俺は写真部の先輩を好きになった。
 写真に興味のない俺が今日も部活に顔を出す理由はただ一つ、そこに彼女がいるからだ。
 学年が一つ違うため気軽に会うことの出来ない俺にとって、あの部活はまさに唯一の逢瀬の場といっても過言ではなかった。
 とはいえ好きだの逢瀬だのと気取ったことを心の中じゃ語っているが、実は一度も口に出したことはない。ましてや本人に直接気持ちを伝えるなんて、考えただけでも顔から火が出そうになる。
 しかしあくまで俺の気持ちはライクではなくラブ。ベタ惚れのゾッコンだ。
 それならさっさとその気持ちを伝えろと思わなくもないが、事はそう簡単じゃないわけで。
 何かきっかけでもあればいいんだがなぁ、と、そんな風に受身な思いを馳せつつ、俺はいつものように写真部のドアを二回鳴らした。
 返事はないが、中から人の気配はする。まぁ、いつものことだ。
 苦笑を浮かべながら、黄土色をしたドアをスライドさせる。
 こうして今日もまた、俺の放課後はなんでもない感じで何事もなく始まり、そして終わっていく。
 そのはず、だった。

       *        *        *

「ふむ。やはり、ここはライカのMシリーズで決めるべきか。コンタックスも悪くはないが、果たして私の手に負えるかどうか……。いや、待てよ? ローライならばどうだ。これならばあるいは……いやいやしかし」
 初夏の日差しが差し込む教室の一角で、先輩はカタログを睨みつけながらなんだかよくわからない横文字を羅列している。
 唸りながらたまに首を横に振ると、艶やかな黒髪が揺れ窓辺からの夕暮れ色を反射した。
 やがて彼女は、小一時間ほどお見合いを続けていた雑誌を閉じ、納得したように何度か頷いた。縁のない四角いレンズの奥から覗く切れ長の眼差しが静かに伏せられ、口元は満足そうに笑んでいる。
 かと思いきや、先輩は視線を壁に掛かった時計に向け、それからまたすぐに、紙の上にずらりと並んだカメラをロックオンし直した。
 陽だまりに包まれた教室で読書に耽る少女の姿は、ともすれば古風な雰囲気の似合うお嬢様に見えなくもない。
 が、時折こうして独り言を呟きつつ不敵な笑顔を見せるその様子は、残念ながら不審人物にしか見えなかった。
 当の俺は何をするでもなく、そんな写真部部長、坂上夕香の生態を観察している。
 他にすることがないのかと言われれば、右にも左にも教室の壁を覆い隠すほどの大量の本が無造作に積まれているのだから、彼女に倣って読書に勤しむという手がないこともない。
 しかし「絶景! 世界の百選」や「できる。写真現像術」などといったこれらの写真集や解説本に興味を向けられない俺には、カタログを睨んで可愛らしく唸る先輩を見ていた方がよほど有意義だった。

 雨樋学園の四階に何年も前からひっそりと存続しているこの写真部は、決して広いとはいえない間取りをしていた。
 キチンと整理すればまるで図書室かと見誤りそうなほどの本に囲まれているのは、歴代の部長がそれらをここに持ち込み、少しずつ少しずつ増やしていった結果らしい。
 ここまで無計画に積み上げられていてはもはや負の遺産以外の何物でもないのだが、捨てるといった選択はどこにも存在していないのも代々からの伝統なのだとかいう話だ。
 その積み上がった数はいまや俺の身長を追い越すほどになっている。そしておそらくは、嫉妬さえ覚えるほど先輩に見つめられているそのカタログも、例に漏れず同じ運命を辿るに違いない。
 そう思うと不思議なもので、憎かったはずの本が憐れにすら思えてきた。
「なぁ鷹広くん、キミならどれにする。ライカといえば、やはりM3しかあるまい。だがこれを見つけることは至難の極みだ。それはわかっている。M6やライカらしからぬM5にも魅力はあるしM3に比べれば入手難易度はそれほど高くない。妥協といえば聞こえは悪いかもしれないが、時にはこだわりを捨てることも大事だ。そうは思わないかな?」
 先輩が俺の名を呼び、早口でMナントカの話題を振ってくる。
 思う思わない以前に何を言っているのかわからなかったが、そんな自分にもわかることがひとつだけ。
「先輩。こだわる前に値段をみてください。値段」
 カタログを覗き込み、先輩の推奨するライカとか言うカメラを指差す。
 理解しがたいことだが、一台十万を超える物がごろごろしていた。
「見るのはタダだろう」
 少し憤慨したような口調で言い、パタンと雑誌を閉じる。
「まぁ、そうですけど」
 怒らせるつもりなどこれっぽっちもないので、素直に頷いておいた。
「ふむ……ところで鷹広くん。女装かお菓子コンクールに興味はあるかな? 優勝すれば賞金十万円だそうだ」
「買う気満々じゃないっすか! それになんで女装ですか!」
「いけると思っているからに決まっているじゃないか」
 こともなげにそう言い、涼しげな瞳で睨まれる。実際には睨まれたわけじゃないのだが、冷たい印象を思わせる顔立ちの上に愛想が悪いというか、常に優位に立っているような口調と表情が多い人なので、わかっていてもそんな風に見えてしまった。
 それだけが原因ではなかろうが、彼女にはいろいろと悪い噂がある。
 坂上夕香は悪魔崇拝者で、マントを付けて夜な夜な黒魔術を行っているのだとか。
 全校生徒の秘密を撮影した写真を所持しているのだとか。
 その噂は九割以上、妬み嫉みからきたものだと俺は思っていた。
 夕香先輩は美人の上に頭もいい。全国模試では上から数えて片手で足りる順位に入ったことさえあるちょっとした有名人だから、信じる方がどうかしているとしか思えないアホらしい噂が流れるのも仕方ないかもと、少なくとも本人と出会う前まではそう信じていた。
 それが単なるデマではないことを、ある日俺は思い知ることになる。
 いや、何も本当に怪しげな魔法陣を描いていたとか、そういうわけではないのだが、ただなんというか火のないところに煙は立たないという言葉の示す通りで、少なくともそう思わせるだけの火種があるからこそバカバカしい噂話が出来上がり、まことしやかに囁かれるようになるわけで。

 つまり坂上夕香は、間違いなく変な女だった。

 出会ったのはいまからひと月ほど前。学年が一つ上がったばかりの頃だった。
 遅咲きの桜を何気なく見上げながらただぼんやりとしていた俺の前に、顔と名前だけならこの学校に通うほとんどの人間が知っている上級生がいきなり現れ、手を差し伸ばしてきた。
『私の元に──写真部に来たまえ』
 制服を漆黒のマントで包み、端麗な顔の左半分を覆う象牙色のマスクを付けた、どこかの劇場に住まう怪人を彷彿とさせる格好をした少女がそんな台詞で勧誘してきたシュールな光景は、いまでもときどき夢に見る。
 彼女が演劇部だというのなら、その装いにも一応納得できただろう。だが写真部がそんな格好でいる意味がさっぱりわからない。
 そのくせまるでいまの自分の格好は当然だとばかりに、先輩は服装のことには一切触れず、部員が少ないとか、このままでは廃部になるとかいう極めて弱小クラブらしい普通の悩みを打ち明けてくれた。
 そんな怪しい女に、普通はついていくはずがない。
 写真部の事情だって、俺の知ったことじゃない。
 そう言って突っぱねることも出来たのに、結局そうはしなかった。
 理由は、実に単純だ。
『ふっ……私は、キミの秘密を知っている』
 透明感のある静かな声がそう告げ、先輩は微かに笑みを作った。だが口元とは対照的に、仮面から覗く瞳は不安げに揺れている。
 その憂いを含んだ眼差しと視線が交わった直後。自分の中の何かが、ゴトリと音を立てた。
 俺はこのとき、初めて一目惚れというものを体験してしまったわけだ。
 とはいえ、それが彼女に惚れた瞬間だったと思うはずもない。
 続けざまにマントの中から取り出された俺の秘密≠フ写真を見せられてしまえば、なおさらだ。
 秘密を守ることを条件にそのまま写真部へ入部したのだが、やがて漠然としたこの気持ちに気付いてからは、俺は積極的にここにやってくるようになった。
 いまはそれなりに楽しくやっているが、ときどき先輩にはついていけなくなる。
 今日なんか、まぁまだいいほうかもしれないが。
「我が部に気品あふれるクラシックカメラを導入したいのだよ。協力したまえ」
 懐かしい思い出に浸って現実逃避していた俺の目の前に、優勝賞金十万円という見出しの載ったコンテストのページが突きつけられる。
 どうやらずっとカメラについて熱く語っていたらしい。
 その情熱には感心しないでもなかった。
「だが断る。写真を撮りたいならデジカメで充分でしょう」
「確かに、デジカメは常備している。
 しかし本格カメラの出す耳障りのいいシャッター音に、
 デジタルでは表現しきれぬ繊細なコントラストに、
 機体から滲み出る厳かな雰囲気に、キミは、何も感じないのかな?
 それでも伝統ある写真部の一員なのかい?」
 その伝統とやらが感じられるのは、左右に積み上げられた本の山ぐらいしか思い当たらない。とはいえ、いまではそれすら存在意義が薄れつつある。
 建前上ここは写真部となっているが、その本質はまったくの別物だった。
 一応、写真を現像するための暗室という別部屋もあるし、機材一式も揃っている。この部屋の存在が少なくともデジタル処理や写真屋にフィルムを渡して終わりといった、撮ることだけを目的とした部活ではないことを主張していた。
 しかし写真部の活動は、コスプレ撮影同好会と名前を変えた方がどう考えてもしっくり来るような内容だ。
 自主制作の衣装を来た部員をひたすら激写し、ひたすら悶える。たったそれだけを主な活動とする、廃部寸前になるのも当然だと誰もが納得してくれるだろう部活なのだ。
 もっとも先輩は、コスプレ撮影よりもカメラ自体を重視しているらしい。撮影狂なのはむしろ、俺が入る前からいた、もう一人の部員――夕香先輩の幼馴染をやっている、四ノ宮藤の方だ。
「キミの協力が望めないとすると、藤くんに頼るしかないわけか。聞いたところによれば、屋上では彼女の写真が密かに売られているらしいじゃないか」
「そうなんですか?」
「いや。あくまで噂だが……キミは買っていないのかい?」
「まさか」
 そんな可能性は、一ミクロンたりともありえない。先輩に惚れているからとかそれ以前に、俺はあの女が苦手だった。
 はっきり言って考え方が合わない。見事に合わない。相手がひょうひょうとしているせいか喧嘩することはほとんどないが、長い人生の中でもそうそう出会えないだろうと自信をもって言えるほど、あの女とは意見の一致を見い出せたためしがなかった。
「そうか、買っていないのか。……なるほどね」
 なにやらしきりに納得をして、それから大きなため息をカタログに吹きかけると、先輩は壁に掛かった時計を見上げた。
 つられて俺も時計を見上げる。長針がさっきより五分進んでいる以外、特に変わった点は見つからない。
 決まった活動日などなく、顧問すらほとんど顔を出さないというまったくやる気ゼロの体制を持つ写真部だが、部員だけは毎日の出席を欠かしていなかった。
 しかしいま部室にいるのは俺と先輩のみ。そして、先輩が全員集合するときを待つ理由はたいてい決まっている。
「何かやる気なんですか、今日」
「ほぅ、さすがだな鷹広くん。その洞察力には恐れ入るよ」
 自分の胸中を探り当てられても動じず、それどころかニッと口端を吊り上げる。まるで、俺がこういうのを待ち構えていたかのようだ。
「それで、今度は何を」
 するのかと、言葉を続けようとしたそのとき、廊下側から軽快なのにどこか騒がしい音が近づくのが聞こえてくる。スキップしながら猛ダッシュしているような、奇妙な足音だ。
「どうやら、彼女が来たようだ」
 先輩は先ほどまでの流れを打ち切り、ドアの向こうからやってくる人間に意識を集中させる。
 足音はやがて部屋の前で立ち止まると、曇りガラスの向こうに見える人影はドアを勢いよく開け放った。
 満面の笑顔でカメラを掲げる女が、廊下で仁王立ちしていた。
「夕香センパイ! 今日も大りょ」
 壁に叩きつけられて跳ね返ったドアが、その姿を隠す。
「って、なんで閉まるのさ!」
 足でドアを蹴り飛ばし、相変わらず無駄に元気でうるさい女がセミショートの髪を揺らして部室に入ってくる。そんな、いつも通りの光景を、俺はうんざりした気分で眺めていた。
「夕香センパイっ、今日も大漁です!」
「うむ。さっそく、現像開始だ」
「らじゃっ!」
 ツーカーとはまさしくこのことだろう。おおよそ他の人間では理解できそうにないやり取りを電光石火で交わすと、藤は本人と同じく自己主張の激しい胸を上下に揺らしながら、部室に備え付けられている別室に飛び込んでいった。
 別室は暗室と呼ばれ、主に夕香先輩と藤が使っている。部屋の半分以上を占拠する暗室は、それでもやはり狭く、おまけに窓もないため現像液などのすえた臭いが常に漂っている。
 暗い狭い息苦しいの三重苦を見事に形成しているあのスペースは、閉所恐怖症じゃなくたって気が滅入ってしまう。先輩にカメラの心得を教え込まされたおかげで俺も現像はできるが、どうしてもあの空間は好きになれなかった。
「って、藤の奴、暗室入っちゃいましたよ?」
「そうだね。今頃はフィルムを抜き出しているんじゃないかな」
 抜き出しの作業は一切の光を遮断して行うため、ドアを開けるなどの光を入れる行為は厳禁だ。つまり、これから暗室は十数分間、一切の出入りが禁じられることになる。
「あいつに用があったんじゃないんですか?」
「うん? ……ああ」
 俺の言葉に目をしばたかせると、やがてきまり悪そうにそろりと視線を外した。
「まぁ、いいじゃないか。あと五分で校舎が倒壊してしまうわけでもあるまい」
「どういうたとえですか」
 呆れながらも、それがまた微笑ましく思えて、自然と笑みが浮かぶ。
 夕香先輩は冷めた感じの美人で、学園内での成績は常にトップとかいう一見パーフェクトな人だが、付き合ってみれば意外とウカツな人だということがわかる。
 それを知った上で俺の取る行動はといえば、彼女にいつもの話を持ちかけることだった。
「ヒマなら、アレやりません?」
「ふっ、いいだろう」
 先輩と藤との会話をどうこう言えない意思疎通を果たし、机の引き出しから一組のトランプを取り出す。
 いつだったか、積まれた本を読む気にもなれない俺は何気なくヒマつぶしの道具はないかと訊ねたことがあった。すかさず出てきたのが、このトランプ一式だ。
「ふふふ、見ていたまえ鷹広くん。今日こそはっ」
 先輩が両手に分けた山を持ち、鬼気迫る様子で構える。瞳には決意の色を宿し、すさまじい力の入れ込みが窺えた。
 もっともその時点で結末は見えた。きっと、今日もシャッフルを失敗するだろう。
「たぁっ」
 右手の山を左手の山と合わせ、再び札を抜き取ろうとする。その途端、カードは指先から滑り、雪崩のように床へこぼれ落ちていった。
「うくっ」
 慌てて拾い上げようとして焦り、その結果、僅かに残っていた札さえも手放してしまう。そうして期待通り、床一面にはトランプがちりばめられるのであった。
「やっぱりダメでしたね」
 原因は単純に力を入れすぎているわけなのだが、わざわざそんなことを指摘してやりはしない。失敗させることこそが、俺の目的なのだ。
「むうう〜。ほ、本当は、もっとうまくできるはずなんだ……」
 これだよこれ。このどう聞いても負け惜しみとしか思えない台詞と一緒に出てくる、反則級の可愛さを持った泣き顔交じりの睨みつけ。これを見て以来、俺はヒマさえあればトランプをしないかと話を持ちかけている。
 負けず嫌いなのか、夕香先輩は最初に失態を見せて以来、まず自分にカットさせろと必ず名乗り出るようになった。いずれ必ず成功させてやると言っているが、その意地が結果に結びついたことは俺の知る限り一度もない。
 頭のいい人だから、原因を指摘すればきっとあっさり上達するのだろうが、先輩が自分でそれに気付くまで俺はこれからも黙っているつもりでいる。好きな子をわざと怒らせるような小学生みたいな心理だが、それは気にしない。
 だって先輩が可愛いから。
「とにかくっ、カードは混ざった。ならば問題ないはずだよ。……はぁ」
 意気消沈したため息と一緒に負け惜しみを残し、そして今日もだらだらとした部活の時間が始まるのだった。


「それでは、本日の議題をはじめるとしよう」
 メガネをキラリと輝かせ、さっきまで落ち込んでいたとはとても思えない態度と口調で夕香先輩が声高に俺と、抜き出し作業を終えた藤を見渡した。
 写真部のメンバーはこれで全員。基本的に顔を見せない幽霊顧問は無視。幽霊部員は会ったことさえない名前のみの存在なのでノーカウントとしよう。
「テーマは奨励祭について。知っての通りこの学校は毎年六月の始まりに雨樋学園奨励祭、いわゆる文化祭を二日間に渡り開催する。すでに各クラスでは準備が進められ、そのほとんどが折り返し段階へと踏み入っている中、私達写真部はいまだになんの準備もしていない。これをどう見る、鷹広くん」
「え、俺?」
 いきなり名指しされ、答えを出すまで少しタイムラグが生まれる。
 そうじゃなくても、やはり面食らっていたかもしれない。なぜならいままで奨励祭のことについて話し合ったことなどなかったから、てっきり何もしないのかと思い込んでいたのだ。
「それは……」
「はいっ、やっぱりあたし達も何か出展すべきだと思いますっ!」
 まごつく俺を押しのけ、藤の大きな声が主張する。
 答える人間にこだわりはないのか、夕香先輩はその言葉にうんうんと頷き、唇を鉤型に曲げた。
「では藤くんに続けて問おう。写真部という個性を出し、なおかつ残り二週間で実現可能な企画とは何かな?」
「展示がいいと思いまーすっ!」
 無駄に元気なテンションと明るい口調で、一瞬たりとも考える素振りなど見せずに明瞭な答えを返す。
 付き合いの長さなら、俺よりも幼馴染だという二人の方がずっと長い。このまま口出しせず任せておけば、案外あっさりと決まるのかもしれない。
「具体案はこうですっ」
 そしてその期待は裏切られることなく、藤はいっそう高いテンションで企画内容を固めていった。
「あたし達の傑作品を惜しみなくパネルで展示! 親切で可愛いガイド付きでワンコイン! さらにプラスワンコインで元野球部のエースさんプレゼンツ、おいしいチーズケーキを進呈! これで今年の最優秀賞はうちのものだぁっ!」
「ちょっと待ったぁぁっ!」
「な、なによぉ、いきなり。びっくりするじゃない」
「びっくりしたのは俺の方だよっ、なんだいまの提案は!」
「ん〜?」
 藤は俺の驚きが理解できないといったふうに小首をかしげる。
 そんな仕草をしたところでごまかされるものか。
「元野球部のエースってのは、誰のことだ?」
「もちろんキミだよ?」
 ビッと細い人差し指の切っ先が俺を指す。
「オーケーわかった。じっくり話し合おうか四ノ宮藤」
「やん♪ フルネームなんてそんな他人ぎょーぎなむぉごっ」
「よーく聞けバカヤロウ。俺の秘密が何か、そのマジカルな脳みそをフル回転させて思い出せ」
「むご……むぇつにふぁくふももむぁいもに」
 ぜんぜんわからない。
「別に隠すことないのに、と言っている」
 すかさず先輩が通訳に入った。
 このままでは会話が不便なので、仕方なく手を離す。
「ふぃー、タカくんったら強引。女の子の扱いがわかってないねぇ」
「お前を女として扱っていいのか、いつも疑問に思っているんだがな」
「えーひどぉい。タカくんには、あたしが男に見えるのぉ?」
 猫なで声で、藤が腕にまとわりついてくる。
 短く切りそろえた髪がさらりとなびき、ほのかなシャンプーの匂いが俺の鼻をくすぐった。
「は、離せよ」
「ふふーん。女の子、感じた?」
 ぐいぐいと身体を寄せ付け、夕香先輩とは比べ物にならない制服の膨らみ箇所で俺の二の腕を撫でる。
 柔らか……えぇい、鎮まれ皆の衆! 落ち着けアドレナリン!
「あははーっ。慌てるタカくん、かわいいっ」
「もお、好きにしろ……」
 だから、こいつは苦手なんだ。
「…………」
「?」
 気のせいか、いま夕香先輩に睨まれていたような……?
 まぁ、そんなわけないか。


 さしあたっての問題は、スペースの確保だった。
 展示を行うには、あの部室では狭すぎる。そんなわけで、俺は顧問に掛け合い、空き教室の工面ができないかと相談しに行かされた。
「うん、それ無理」
 笑顔で瞬殺されました。
 そもそも奨励祭の二週間前にそんな企画を立てること自体、どうかしているのだ。今更になって空き部屋が手に入るなんて都合のいいことが起きるはずがない。
 これで、めでたくケーキはナシってことだ。
 元がつくとはいえ野球部のこの俺が、実はお菓子作りが趣味だったなどと、絶対に知られるわけには行かない。
 なのに、夕香先輩はあろうことか自宅のキッチンでケーキを作る俺の写真を持っていた。それが出会ったときに見せられた例の写真なのだが、先輩に惚れてしまったいまではアレもきっかけの一つだったと思っている。だがそれはそれとして、秘密にしておきたい気持ちは常に健在だ。
 ちなみにブツを使い勧誘したのは先輩だが、写真を撮ったのは藤らしい。なぜそんな黒幕めいたことをやらかしたのかは、いまだに謎である。
「ん?」
 四階の廊下に戻ると、写真部の部室の前に見慣れない男子生徒がいた。
 小柄な身体にワンランク上のサイズと思われる学ランを着た、一見すると男装した女のような男だ。頭には白いハチマキが巻かれ、思いつめたような眼差しでドアを見つめている。
「写真部に何か用か?」
「うわああああああっ!」
 俺が声をかけると、小柄な男はその細い体つきに似合わず、耳が痺れるほどの大声を上げながら大げさに跳び上がった。
 キーンという妙な音に襲われる。藤のようにただ無闇に騒がしいだけではない、腹の底から発せられた大声だ。
「なになに、いまの?」
「廊下からだね」
 声は部屋にいる二人にも届いていたらしい。
 小柄な男はそれに気付くや否や、すかさず俺の脇をすり抜け、あっという間に階段を駆け下りていった。
「な、なんだったんだ?」
 一瞬遅れで部室のドアが開いたときには、すでにその男の足音さえ聞こえなくなっていた。

 幽霊部員かとも思い、二人にもさっきの男のことを聞いてみたが、どうやら性別からして違うらしく、俺の予想はあっさり潰えてしまった。
 それでもまだ興味の尽きなかったらしい藤は、その男の容姿を事細かに尋ねてきた。
「背は結構小さかったな。あと、女みたいな顔してた」
「ふぅん、小柄な美少年かぁ」
 何を妄想しているのか、男の特徴を聞いた藤はニヤニヤと口元を歪めている。
「あ、もしかして入部希望者だったり? でもそれならなんで逃げるかな」
「なんにしても、いまいない人間のことを考えていても仕方あるまい。入ってきたら、是非とも写真部に貢献してもらうがね」
 不敵な笑みを作り、今日また新たに積み重ねられたクラシックカメラのカタログを見上げる。何を考えているのか、手に取るようにわかりそうだ。
「ところで、空き部屋の件はどうなったのかな?」
「そうそう、タカくん。あたしもそれ聞きたい」
 キラキラと、藤はともかくとして、わかりづらいが夕香先輩までが期待の眼差しを向けてくる。
 不意討ちのような、その素直すぎる感情の露出は正直、反則だ。
「えーと……か、考えておくって、言ってました」
「えー? タカくん生ぬるいよぉ」
「いや、うちの顧問は白黒をはっきりつけることで有名だ。曖昧な返事をもらえただけでも、充分希望の光がある」
 俺の嘘にまるで疑いを持たず、先輩の澄まし顔がほんの少し綻ぶ。拗ねた顔も可愛いが、やはり笑顔に勝るものはない。
 ないの、だが……。
「では鷹広くん。ケーキ作りと部屋確保の件はキミに任せよう」
「わ……わかり、ました」
 たった一つの嘘が、身の破滅を呼ぶ。誰が言ったかは知らんが、なんとも的を射た言葉じゃないかコンチクショウ。
「と、ところで、それ、なんですか?」
 このままこの話題が続くのがイヤで、俺は机の上を覆い隠す紙切れを指差した。
「ガイド服のデザイン画だ。キミのいない間に話を進めておこうかと思ってね」
「そうそう。で、当日になってサプライズ! っていうのが理想だったんだけど」
 散乱したコピー用紙には、修学旅行で見かけたバスガイドのような服装にアレンジをくわえたような構造の服が描かれている。
 中には色気もへったくれもない黒一色で統一された上下のスーツや、これはメイド服じゃないかとツッコミたくなる服まであり、それぞれの趣味やセンスが窺い知れるところだった。
「やっぱりさぁ、ガイド服の基本はスーツだよね? ところがどっこい、あたしはあえてメイド服を推す!」
「基本とは裏を返せばありきたりで独創性がなさ過ぎるからね。だが私は反対する。ガイド服にはガイド服の魅力があるんだ」
「運転手を惑わしてこそのガイドでしょう? センパイのは色気がないんですよ」
「ふ、キミもまだまだ青いな藤くん。ビジネスウーマン、つまり大人の色気というものを知らないのかな」
 かわるがわる、流れるように喋り続ける二人に、俺は口どころか思考も挟む余裕がない。
 なんにしても、話題のすり替えは成功したようで何よりだった。
「フレアのヒザ上十五センチと夕香センパイ。二つの力がひとつになれば、百万パワーは確実ですよぉっ」
「無駄な露出は客の目を曇らせるので感心はしないな。あくまでメインは展示物なのだ。というか、恥ずかしいので嫌だ」
 黒マントと仮面で校内をうろつき回れる夕香先輩が恥ずかしいなどと言う理由がいまいち納得できないが、そこは何かしらのこだわりというかボーダーラインみたいなものがやはりあるのだろう。
 入部してしばらくしてから知ったことだが、あの黒マントはファントム≠ニ名乗る怪人をモデルにした、裁縫のスペシャリストを自称する藤の自信作らしい。なんでそんな物を作ったのかと聞けば、『センパイが着てみたいって言ったから』だそうだ。
 そんな風に基本的に夕香先輩を支持する藤だが、どうも今回ばかりは譲る気がないらしい。
 閑話休題。
「俺、もう帰っていいですか」
「まぁ待て。今日中にデザインを決めたいんだ」
 それと俺の居残りとどう関係があるんだ。
「タカくん。女の子の服はね、男の意見も取り入れてこそなの。言ってる意味、わかるよね?」
 わかりたくない。
 そんな俺の心の叫びは届くはずもなく、少女らは再びガイド服についてのサミットを開始した。
 重要だとか言っておきながら、意見を聞いてくる素振りなどひとカケラも見せてこない。スーツだメイドだと言い合う声を、俺はあくびをしながら聞くだけだ。
 どんな格好をしても夕香先輩は可愛いに違いないのだから、話の行く末に興味はほとんどなかった。
 このままでは退屈で死にそうだ。トランプをしようにも、一人では神経衰弱ぐらいしかできない。
 孤独である。
 俺はパイプ椅子の上で座り心地を正すと、上体を机の上に沈み込ませた。
 枕となる両腕も机の上に寝そべらせる。
「ロングスカートにこそ、淑女としての魅力が凝縮されているのだよ。くるりとターンしたときにふわりと浮き上がるスカートの裾にロマンスは感じないかな?」
「いえいえ、時代はミニですよ、ミニスカート! 猫も杓子も袴も浴衣も、ミニが萌えるんだと言われる時代です!」
 頭の上から先輩と藤の声が降り注ぐが、就寝体勢に移った俺を咎める様子はない。もはや完全に蔑ろにされているわけだ。
 悪気はないとわかっていても、その理不尽さに多少の不機嫌を覚えつつ、しかし寝そべることで眠気は急激に加速する。
 一人ほったらかしにされた俺は、春の陽気も終わりかかった午後の日差しにあてられながら、ゆるゆるとした眠気にさらわれていくのであった。


「んあ?」
 気がつくと、さっきまで夕暮れに染まっていた教室がやけに白くなっていた。
「起きたの? タカくん」
「藤?」
 机を挟んだ向かい側には、なぜかドライバーを握り締める藤がいた。周りを見ても夕香先輩の姿はない。あと目に入るものといえば、机の上に並んだカメラの部品ぐらいなものだ。
 窓の外にあったはずの夕日はいつのまにか消え、代わりに満月が顔を出している。
「俺、寝てたか?」
「バッチリ。センパイ、怒ってたよ」
 それは少し面倒なことになりそうだ。あの人、単純なくせに根に持つタイプだからな。
「ってか、起こしてくれればいいのに……」
「起きるまで放っておこう、だって。優しいよねー」
「いや、それ優しさと違うだろ」
 きっといまの台詞は、笑顔とアオスジのセットで言っていたはずだ。
 上手く機嫌を直す方法を考えておかないと、あれで子供っぽいところのある人だからしばらく口をきいてもらえなくなるかもしれない。
「戸締りとかあるし、あたしが居残りさせられたわけだけどさー」
「うぐっ」
 先輩の対処方法について考えていると、別方向からのイヤミが来た。
「あの時パーを出していればなー、観たかったテレビあったんだけど、センパイの頼みなら仕方ないよねー」
「わ、悪かったな」
「別に〜? ビデオ予約してあるからいいんだけど、やっぱりリアルタイムで観たいじゃない? わかるよね、この気持ち」
 謝って損した。
「わからん。……それで、何してんだ?」
「うん? 見てわかんない?」
 言いながら外装パーツをはめ込み、カメラとしての形式が取り戻される。
 黒くて四角い、やたらゴツイ感じのする一眼カメラだった。夕香先輩ならばその機体の名前ぐらいすぐに出てくるだろうが、あいにく俺にそういった知識はない。
「カメラをバラしていた」
「う〜ん、ま、そうなんだけど。せめてお手入れしていたって言って欲しいなぁ」
 苦笑を浮かべながら、一般的に良く見るフィルムよりも一回り小さい感じのする物をカメラに組み込む。
 フィルムの巻き上げもどうやら手動らしく、レバーをぐりぐりと回している。もしかしたら、これがさんざん先輩が語っていたクラシックカメラという物なのかもしれない。
「それ、お前のか?」
「ううん、プレゼントする予定。夕香センパイ、もうすぐ誕生日だから」
「なっ」
 衝撃的過ぎるその言葉に、イスを鳴らして立ち上がる。
「い、いつだ?」
「ん〜、何のことかな〜? ふふふふふ」
 ニマニマしながら、わかりきったことを聞き返してくる。
 こっちの気持ちなどお見通しだといわんばかりだ。
 しかし惚れている相手の誕生日に何もしないという選択肢は、俺にはない。それで藤に借りを作ることになってもだ。
「だから、先輩の……」
「知りたいんだ?」
「うっ」
 交換条件を出すつもりだと一目でわかりそうな笑みが浮かぶ。
 どんな無茶振りをさせられるのかわかったもんじゃない。何しろ相手はノリ重視のやかまし女、四ノ宮藤だ。
「んじゃ、写真取らせて」
「…………は?」
 思いもかけない頼みに、思わずマヌケな声を返す。
「だめ?」
「いや、いいけど、なんで?」
「べ、別にタカくんのことが好きってわけじゃないんだからね! って、言って欲しい?」
「全力で断る」
「あはは、タカくん冷たーい。ショックだなー」
 能天気な調子で心にもないことを言い、藤は持っていたクラシックカメラのレンズを俺に向けた。
「それ使うのか? 先輩の誕生日プレゼントなんだろ?」
「ま、気にしない気にしない。はい、変な顔しないでねー。撮るよー」
 あのまま先輩にプレゼントすると、現像するとき俺の写真も紛れ込んでしまうのだが……こっちの都合が悪いというわけでもないので放っておこう。なんだか腑に落ちないものを抱えながら、それでも素直に従う。
 ――カシャッ――
 乾いた音と、景色の明滅する強い光が襲い掛かる。
 ……ん? クラシックカメラなのにフラッシュが内蔵されているのか?
「なぁ、ふ……じ」
 前触れもなく、視界がぼやけた。
 フラッシュにあてられたのかとも思ったが、どうやら違うらしい。
「あ、れ?」
 力が抜けていく。
 立っていられないほどの疲労感が全身に降りかかり、よろめいてしまった。
 俺は踏ん張ることも出来ず、そのまま後ろに倒れてしまう。
「う」
 背中に壁がぶつかると同時、頭の上に何かが落ちてきた。
 足元を見ると、数時間前に夕香先輩が眺めていた分厚いカタログが、なぜか床に落ちている。
 ……そういえばこの部室、壁イコール無造作に詰まれた本だったよーな。
「た、タカくん……うし、ろ、あぶな……」
 さっきまで元気いっぱいだった藤の声も、つらそうな響きに変わっている。
 そういう彼女の後ろも、積まれた本らがまるで均衡を崩したジェンカのごとく、崩壊の序曲を奏でている──なんて、寒いフレーズ考えている場合か、俺っ。
「わっわっ、うきゃああああっ!」
「いでっ、あだっ、うおをををっっ!」
 この狭い部屋を取り囲んだ雑誌から逃れられるはずもなく、そもそも謎の疲労感で身体もまともに動かせなかった俺と藤は、そのまま本の高波に呑まれ、遠のく意識を手放した。
 ……なんで、こんな目に。


「い、ててて……」
 痛む頭を押さえながら、薄ぼんやりと目を覚ます。
 本を振り払い身体を起こすと、しばらく見ていなかった部室の壁がすっかり露わになっていた。
 足元には見事なまでに本が散乱し、床一面どころかパイプ椅子の脚部分すら埋め尽くしかねない状況になっている。まったくよくもまぁ、ここまで本を集めたものだ。
 時計を見上げると、気絶してからほんの五分程度しか経っていないことがわかった。
 辺りに藤の姿はない。生き埋めになっているのか、それともすでに目覚めていて先に帰ってしまったのか。
「ったく……」
 さすがに、このままの状態にして帰るわけにもいかない。元の状態にするのが無理でも、せめて人の通れる道ぐらいは作っておかなければ。
「うん?」
 部屋の中を映す窓ガラスに、きょとんとした顔の藤が映りこんでいた。
「なんだよお前。どこに行ってたんだ?」
 いいながら振り向くが、そこには誰もいない。
「は?」
 もう一度、窓を見る。やはり藤の姿が映っていた。と、そこで俺はようやく違和感に気がつく。
 窓ガラスには、俺≠フ姿が映っていなかった。
「んー?」
 訝しげに思いながらガラスを凝視すると、鏡面世界の藤も目を細めた。
 さらにもう一つ、ドキリとすることに気がつく。声が、いつもと比べてずっと高いものになっていた。どうしていままで気がつかなかったのか不思議なぐらい、男の声としてはそうそう出ない音階を、俺は当たり前のように出している。
 声だけではない。下を向けば、なぜか突き出た胸が、着た記憶なんてあるはずのない女子の制服を持ち上げていた。
 胸が邪魔で見えづらいが、股下はやたらと風通しがいい。ほっそりとした健康的な脚も見える。心なしか、髪も少しばかり伸びているようだ。
「いや待てっ、いいから待て!」
 思考が恐ろしすぎる結論に到達してしまう前に、ギリギリで引き止める。
 何度か深呼吸をして、俺はもう一度、順を追って考えていった。このさい、息を吸い込むときに感じた胸の窮屈さは無視だ。
「いいか? 俺は男だ。鷹広なんつう、明らかに男の名前があるんだ!」
「しかぁしその見た目は女。男女に使えるリバーシブルネーム、四ノ宮藤だぁ!」
「それを言うなぁ! ってか、誰だぁっ!」
 人がせっかくあえて先延ばしにしようとした結論を、背後の声があっさりと導き出す。
 その聞き覚えのあるようなないような男の声に振り向くと、教室の入り口で笑顔を浮かべた俺≠フ姿があった。
「あっははは、せわしないねぇ、タカくんは」
 俺≠ェ、覚えのあるお気楽な口調で、この世でたった一人しか使わないアダ名で俺を呼ぶ。もうほとんどわかっているはずなのに、それでも認めたくなくて、俺は震える指を自分の姿に向けた。
「お、お前まさか…………藤、か?」
「あはは〜……はぁ。困ったねホント」
 ぜんぜん困っていないと言わんばかりの喋り方と表情のまま、俺≠ヘコクリと頷いたのだった。


 人というものは無意識のうちに本来の自分をイメージするようになっているという話は、先輩のウンチクだか何かで聞いたことがある。たぶんそのせいで、俺は自分の異変に気付くのが遅れてしまったのだろう。実際、自分の身体が藤になっていると認識してからは、やたらと胸が重く感じて仕方がなかった。
 俺とは逆に、先に目を覚ました藤は自分の身体が倒れているのを見て、すぐに事態を把握したらしい。窓ガラスではなく、わざわざトイレの鏡で姿を確認しにいっていたあたり多少の混乱は窺えるが、それでも俺と比べると藤はだいぶ冷静だった。
「入れ替わった原因って、なんなのかな」
「俺は夢だと思う。こんなこと現実に起こってたまるか」
「いやいや、甘いよタカくん。世の中はね、階段を一緒に転がり落ちたり、近くに雷が落ちたりするだけで、こんなことは案外起こるものなんだから」
 そんな世の中のコトワリなんざ聞いたことがない。そんなことよりも、男の声でその口調はかなり気持ち悪かった。
「ってか、どうしてお前はそんな平然としているんだよ!」
「えー、あたしだって困ってるよー? うまくタカくんらしくできるかとか、これじゃ可愛い服は似合わないな、とか」
 すんなり受け入れているようで何よりだ。すぐに打開策が出せない現状で、それは正しい悩みなのかもしれないが、どうも腑に落ちなかった。
 なんだかんだとはいえ藤も女だ。男の俺に自分の身体を使われて、抵抗がないはずはない。
「あ、でもどっちかっていえばタカくん女顔だし、キチンと処理すればミニスカとかも断然ありだよね」
「ねぇよっ! いくらなんでも落ち着きすぎだろお前っ!」
「だぁって、悩んだって始まらないし。それとも、あたしの知る四十八の入れ替わり方法試してみる?」
「方法あんのかよ!」
 俺のエアツッコミが風を切る。それならそうと早く言ってくれ。
「うーんとねー」
 藤は明後日の方向を見つめながら、指折りにその方法とやらを挙げていった。
「まずセオリーなのが、入れ替わったときと同じ衝撃だね。例えば、曲がり角でぶつかったんなら、またぶつかってみるとか。変な道具が原因なら、もう一度それを使うとか。他の方法なら、キスとかエッチとか、あとはクシャミとかアクビとか、悪魔との契約とか、宇宙人に脳みそ交換してもらったりとか?」
「いやちょっと待てストップ」
 どんどん胡散臭くなっていく提案の中で、一つ引っかかるものがあった。
 気絶する前に起こった異常事態を思い出す。むしろなぜそれが一番初めに思い浮かばなかったのか不思議でしょうがない。
 それの正体が思いついた俺は、すぐに最初に目覚めた地点の本をひっくり返していく。予測通り、俺の倒れていた位置とほぼ同じ場所に、ソレはあった。
「たぶん、これだよ。このカメラ」
「えー? カメラで撮ったら入れ替わったの? なんか非科学的ー」
 いまの俺達が置かれている状況を科学的に説明できるのなら、是非やってもらいたいものだ。
 俺だって信じられないが、藤のいう怪しげで危険で、かつ絶対後悔するような提案よりも先にこっちを試した方がいいに決まっている。
「これで、もう一度シャッターを押せば……」
 ファインダーを覗き込み、俺≠ノ向けてシャッターを切る。
 しかし、どうしたわけかあの乾いた音どころか、押したという手ごたえすらまったく感じなかった。
「まさか、な」
「壊れているの?」
「それを言うなぁぁぁぁっ!」
 認めたくない現実をまたもや残酷に、しれっとした顔で告げられる。
 さっきから藤はえらく冷静だ。というよりも、実はまだ思考がまともに働いていないだけなのかもしれない。
「お前、さっきカメラいじっていたろ? なんとかできないのか?」
「んー、修理となるとちょっとねぇ。……とりあえず、今日は家に帰ろうよ」
「ノンキだなお前は。……うん?」
 頭をかきむしっていた自分の腕を、五秒ぐらいじっとみつめる。当然だが肌の白さや手の小ささ、肉付きなどは、明らかに男のときと違っていた。
「帰るって、もしかして、俺がお前の家に行くのか?」
「うん。で、あたしがタカくんの家に。身体が変わったんだから、お互いの生活も交換しなきゃ」
 こんな非常識なこと、誰に言っても信じてもらえない。よくて白い目で見られ、運が悪ければ病院行き。自分自身、いまだに夢の中にいるんじゃないかと思っているぐらいだ。
 ことを騒ぎ立てないためには、それしか考えられなかった。
「カメラはあたしがお店に持ってくね。あたしが修理するより、ずっと確実だし」
「はぁ……。わかった、頼む」
 俺は藤にカメラを渡し、これからのことを考えた。
 お互いの生活を交換ってことは、ボロを出さないよう、藤らしく振舞わなければいけないということだ。
 あの無駄に騒がしく無意味に明るいテンションで喋らなければいけないと思うと、いますぐ失踪してしまいたい気分だった。考え方から何から違う女の真似が、どうしてできる?
「お互い頑張ろうねっ」
「おー……」
 笑顔と一緒にVサインを出した藤に、俺はすさまじいまでの不安を覚えた。
 とりあえずコイツにも俺らしくしてもらわなければならないので、そのテンションは封じてもらうことにしよう。
 このさい、永久に。


 ひとまず最低限の情報と家までの地図を書き記し、俺は藤の家へ、藤は俺の家へと帰ることにした。
 彼女の両親はいつも帰りが遅いらしく、演技の問題はひとまず先送りにできたが、それでも一向に気は晴れない。
「はぁ〜」
 ため息をついているうちに、電気のついていない四ノ宮家に辿り着く。どこにでもある、普通の一軒家だ。
 藤の部屋は二階にあるようだが、本人いわく、『ちょっと汚いけど我慢してね』だという。普段からの雑な振る舞いを知っているので、そのときはまだ、女の子の部屋に入るという期待感と背徳感の方が、汚い部屋というキーワードよりも重要視されていた。
「うお……」
 だが家に入り、部屋のドアを開けた瞬間、『ちょっと汚い』という俺の認識は根っこから覆された。脱ぎ散らかされた洋服に、山と積まれた漫画や雑誌。部屋の隅にまとめられたゴミ袋からは、心なしか妙な臭いが漂っている。男でもなかなかこうはいかないぐらいに、六畳ほどの空間がゴミで隙間なく埋め尽くされていた。足の踏み場もないなんて言葉は、とうの昔に超越していそうだ。
 俺は特別キレイ好きなわけでもないが、さすがにこの惨状には目眩を覚える。
 壁にはポスターが貼ってあるが、アイドルとかではなくなんかのアニメキャラらしいところが本気で救いようのなさを感じさせた。
 片づけるにしても、一体どこから手を付ければいいのかさっぱりわからん。
「と、とにかく着替えなきゃな……」
 意識した途端、ふいに顔が熱くなる。
 好きでもない女の身体でも、やはり多少の興奮は覚えてしまうものだった。そのあたりは、悲しいことに健全な男のサガと言えよう。
 しかしいざ着替えようとしてみて、俺はどこにもタンスがないことに気がついた。クローゼットがあるにはあるが、なぜかウチの学校のものではない制服や職業別の制服が吊るされているだけで、普段着らしいものは足元に散らかっている服の他に見当たらない。
 まさか、あの女はこの脱ぎ散らかした服を、そのまま着ているのだろうか。それとも、クローゼットのあれらを私服にしているのか。
 どっちにしても、ありえねぇ……。
 それでも、事実はいつだって残酷で、結局おろしたての洋服は一着たりとも見つからなかった。
 だらしがないにも程がある。二度とこの身体に興奮を覚えまいと固く心に誓ったことは、もはや言うまでもないことだ。
 藤の方はうまくやっているのか。もはや、それだけが気掛かりだった。

        *        *        *

 木漏れ日から差し込む日差しは眩しく、スズメのさえずりと相まって実にサワヤカな朝を演出している。
 そんな快い日和とは対照的に、通学路を歩く俺はひたすら憂鬱だった。
 女子の制服はブレザータイプだったおかげで特に問題なく着ることが出来たが、下着類との格闘に三十分。いつもならほうっておくはずの寝癖がなぜか気になり、格闘すること十五分。そんなこんなで、朝から妙な疲労感に襲われている。
 それでも気の休まる暇はなかった。歩くたびに胸が揺れ、制服のスカートのヒダが太腿を擦りつける。丈はちょっとした風でも吹けばめくれてしまいそうな長さで、不安極まりない。
 さらには通学途中ですれ違う男子生徒達の目は、ことごとく胸やら尻やら脚やらに集まっているようで、非常に落ち着かなかった。
 正直言って、めちゃくちゃ恥ずい。ずっと下半身を無防備にしているようなこの状態をまったく気にする素振りも見せずに生活できるのだから、女という生き物は実にたいしたものだと、感心さえ覚えてしまうほどだ。
「やぁ、藤くん」
「おわぁ!」
 なんの前触れもなく、突然、真横から親しげな声が掛けられた。
 いまどき珍しく膝上ラインの長さを保ったスカート丈と、すっきりとした平野を思い起こさせる胸には見覚えがある。
「お、おはよう、ございます。夕香先輩」
「おはよう。今日はずいぶんとおしとやかだね」
 いつもの何を考えているのかよくわからない顔ではなく、口調や表情には初めて見るような明るさが滲んでいた。一瞬、誰かと思ったほどだ。やはり幼馴染である藤が相手ならば、鉄壁の無愛想も多少は和らぐのかもしれない。
「え、えぇ〜と。そ、そんなことは、ない、かと」
 藤らしく喋ろうとしても、口先はどもるばかりだった。というか、一晩で女言葉を円滑に使えるわけがないだろと、逆切れ気味に思う。
「そんなことがあるから言っているのさ。花も恥じらう、とはよく言ったものだね」
「え、えと、あの……」
「どんな心境の変化があったのかはともかく、いまなら、藤くんを籠絡できるような気がしてきたよ」
「ろ、ろーらく?」
 夕香先輩はさらさらと話を進めていくが、俺はどんな受け答えをすればいいのかと気ばかりが焦ってしまい、オウム返しに問い返すだけで精一杯だった。
 ひたすらあたふたしていると、先輩はいきなり、一枚の絵を突き出してきた。道のど真ん中で彼女が見せびらかすそのコピー紙には、大正時代を思わせる袴服のデザイン画が描かれている。
「私の最終カードはこれだ。古きよき時代に思いを馳せる、袴コスチュームの案内人。ワビ・サビを基調とし、淑やかな華を持たせたこのデザインこそ、私が推すロングスカートの魅力を最大限に引き出す衣装だと自負している」
「……は?」
「袴姿の女性が淑やかな身振りで、飾られた写真を流暢な語りで紹介していくという光景を想像してほしい。その上でこの意見の是非を問おう」
 どうやら、まだ昨日の話は終わっていなかったらしい。
 登校中の生徒達が足を止め、高々と掲げられた大正ロマンスいっぱいのデザイン画を興味深そうに覗き込んでいる。呆気にとられ何も言えずにいると、射るような眼差しで先輩が俺を見つめてきた。
「私のターンは以上で終わりだ。約束どおり、次はキミが最高だと自負する衣装画を見せる番だぞ」
「えぇと、その……」
「では、こちらのカードッ」
 背後から聞こえてきたその台詞と同時に、俺の頭の上から伸びた腕が、夕香先輩と同じ位置にコピー紙を広げて見せる。
 途端に、先輩の背後にいた男達からなぜか歓声が上がった。
「全身を包み込むのはグランブルーで統一されたデニムのワンピース。そのタイトスカートの丈はなんとヒザ上十五センチッ。もちろん安全面を考え、黒のストッキングでおみ足は完全防御! おっと残念がるにはまだ早い。この衣装、実はなんと背中丸出し! ギャラリーのガイドがあられもなく背中をさらけ出し、お客を先導するその姿を想像して下さい。そして賛同を!」
「た、鷹広くん?」
 戸惑い、ポカンとした無防備な表情が、俺の背後を見上げる。可愛いが、それに見とれてばかりもいられなかった。
「お前、ちょっとこっち来い!」
 どす黒い声を上げて紙切れを奪うと、後ろにいる人間が誰か確かめることさえしないまま腕を掴み、全力で走り出す。背後で先輩の呼び止めるような声を聞いたが、カッとなった頭ではこの場から離れることしか考えられなかった。

「ど・お・い・う・つもりだ、テメェは!」
 相手を物陰に押し込んだ俺は、その胸倉を掴んで一言一句に力を溜めながら叫んだ。ハタから見ると女が男に詰め寄るといったなかなか誤解を生みそうな光景ではあるが、いまの俺にそんなことを気にする余裕などない。
「いや、実は昨日、デザイン画を見せ合うって約束してて」
 紙切れを広げていた張本人――俺の身体をした藤は、ヘラヘラとお気軽に笑っていた。
「あのな、お前がデザイン広げてどーする!」
 通学路で露出を重視した服の絵を広げ、それを絶賛する男なんてイヤ過ぎる。
 というか、まさしくたったいま、俺≠ヘそれをやってしまったのだ。
「ああもう、どーすんだよ変な噂されたら! 変態じゃねぇか、俺!」
「いや、普通の男ならミニスカ萌えなんて理解していて当然だし、セーフじゃないかな」
「道のド真ん中であんな流暢にヤバイ説明している時点でもう三者凡退コールド負けだボケェ!」
 ガクガクと揺さぶるが、藤から笑顔は消えない。
「タカくんってさ、萌えに理解ない人? だめだよそんなんじゃー。本棚も面白味に欠けるし、エロ本もオーソドック」
「るっせぇぇぇぇぇ!」
 さらに揺さぶり、詰め襟で首を絞め上げる。もういっそ、このままオトした方がいろいろ平和になる気がしてきた。
「あはは、苦しいってば、もう」
「ぬぁっ!」
 全力で絞め上げていた手が、片手であっけなく振りほどかれる。
「まぁまぁ、落ち着いてよ。ね? あんまりカッカしてると身体によくないよ」
「誰のせいだと思ってんだ!」
「それに、ほら」
 藤が指をさした方向では、通学中の学生らが興味深そうにこちらを窺っていた。
 俺と視線が合うと、人垣はそそくさと散っていく。
「これ以上騒いでいたら、二人にとってマイナスにしかならないと思うんだよね。それとも、あたしとワンセットで変な噂、されたい?」
「絶対にノゥ!」
 藤に捕まえられた腕を乱暴に振りほどき、背中を向ける。性差の力がここまで圧倒的なものになるのかと、疑問を抱かざるを得ない。というか理不尽だ、いろいろと。
「もしかして、泣いている? 泣いちゃった?」
「泣いてねぇよ! 先に行くからな!」
 啖呵を切って、路地裏から走り去る。ひとまず、わかったことが一つあった。
「あ、カメラの修理だけど、しばらく時間かかるって」
 そんな重大なことを、ついでのように笑顔で告げる藤を見て、俺はよりいっそうそれを強く確信した。
 こいつ、絶対にいまの状況を面白がっていやがる。


 昼休みになると俺は学校中を探し回り、ようやく校舎裏でターゲットを見つけ出した。そいつは手入れのまったく行き届いていないだろう茂みに這いつくばり、まるで狙撃を行うスナイパーのようにカメラを構えている。
 レンズが向けられた先には、みつあみの女の子がベンチの上に座っていた。眠っているのか、その両目は伏せられたままで、茂みに隠れた不審者に気付く様子はない。
「何してんだ、てめぇはよ」
「へぶっ」
 寝そべる男に近づき、その頭を思い切り踏みつける。自分の身体を痛めつけることになったが、通報してくれといわんばかりのポーズを衆目に晒し続けるよりはマシだ。
「いったぁい! 何すんのよ!」
「やかましいっ、気持ち悪い喋り方すんな!」
 鼻を赤くさせながら、涙目で抗議してくる男を全身全霊かけて怒鳴りつける。
 口調どころか、テンションや仕草まで女のときから変わっていなかった。まさか、教室でもこの調子でいたんじゃあるまいな。
「ふん、何をしているかって? あれを見なさい!」
 指を向けるその先には、先ほどの光景と寸分変わらず、ヒザにハードカバーの本を置いた女子生徒が静かに目を閉じている。
 木漏れ日を浴びる安らかな寝顔は、息を呑むほどに平和な風景だ。
「どう? あの姿をカメラにおさめない理由はないでしょ。野外で読書、ハードカバー、みつあみ! この三大テーマから導き出される四文字熟語は何か、わからないとはいわせないわっ!」
「隠れて撮るなっ」
「一枚いいですかー? なんて言ってたら起きちゃうでしょうがっ。ありのままの光景をおさめるからこそ、写真は美しいのよ!」
 言っていることはまともに聞こえるが、結局のところは盗み撮りには変わりない。撮ったあとで被写体に説明して了解を得るならまだしも、撮影者が藤ではそれも期待できない。
「って、俺はそんな話をしにきたんじゃなくて……待て、なんでこっちにカメラを向ける?」
「んー? 記念撮影」
 そう言い、俺の足元でシャッターを切った。
 瞬間的に何を撮られたのか悟り、慌ててスカートを押さえる。
 なにやら自分の仕草が女っぽくなっているような行動に恥じらうヒマもなく、藤は続けざま二枚三枚と、次々に俺を、というより、スカートの中をカメラにおさめていった。
「わぉ、その表情いいねっ! あたしじゃ絶対にしないカオだわっ! はい、そのままカメラ目線っ」
「う、う、うるせぇぇぇぇぇぇっ!」
 撮られるのも構わずに、足を振り上げ、靴底をカメラレンズに叩きつける。『みぎゃっ』と奇妙な悲鳴を上げ、ようやく藤は大人しくなった。
「はぁ、はぁ……うん?」
 視線を感じて、顔を上げる。だが、いつのまにか体勢を崩しまるで酔っ払いのような格好でベンチに寝そべる少女の他には、誰も見当たらなかった。
「い、いたたたた。酷いなぁ、女の子がカカト使っちゃだめだよ」
「うっさいバカ。それより、いくつか教えてもらうぞ」
「スリーサイズ?」
「違うわドアホゥッ!」
 知りたきゃ自分で測っている。って、そうじゃない。
「まず、朝に言っていたカメラのことっ!」
「ああ、それね。実は、店の人に朝イチで直してもらうように頼んだんだけど、やっぱり古いカメラだからさ、長くて七日間ぐらいはかかるって言ってたよ」
「な、七日?」
 どっかのパパとムスメじゃあるまいし、そんなに長い間このままでいなきゃいけないのか。
 にわかに、ついさっき聞いたばかりの情報を思い出し、血の気が引いていく。
「……お前の提案だろ」
「何が?」
「クラスの出し物!」
 藤のクラス、二年C組が出展するのは中華風の模擬店だという。
 接客する女子は全員スリットのきわどいチャイナ服を着るらしく、そのメンバーの中には四ノ宮藤の名前もあった。
 当然、衣装合わせは奨励祭の本番より前にする。そしていまの状態のままでは、その格好をするのは俺ということだ。
「俺に、チャイナ服を着ろってのか?」
「着るのはその身体なんだし、問題ないでしょ? それとも事情を話してあたしが着てみる? 結構イケルかも」
「そのネタはもういい!」
 いまもなかば女装をしているような気分だが、男の身体でそれをやられては絶対に立ち直れない。
 それにしても、部活でクラスでと、とりあえずコスプレ趣味を貫き通すのはある意味では見事だった。
「うーん。っていうか、チャイナ服はあたしの提案じゃないんだけどね」
「お前以外に誰がいるんだよ」
「すぐわかるよ。カメラが直れば元に戻れるんだし、このさい楽しんでみたら?」
 楽しめるものか。
 だいたい、カメラが原因だとまだ確定したわけではない。ほぼそれで間違いないとはいえ、絶対ではないのだ。
「もーネガってるなぁー。戻れるよ、きっと。なんなら、昨日言ったいくつかの方法でも試してみようか?」
 衝撃。道具。キスやそれ以上の肉体関係。藤がいうところによると、これらが入れ替わり理由のセオリーらしい。
 その道具に該当するカメラがダメだった場合、残る方法はぶつかるか抱かれるかしかないということだ。
 相手が自分であろうと、男に抱かれるなんて絶対にイヤだ。万が一それしかないというのなら、俺は一生このままでいい。
「あっはは。真っ赤になっちゃって。ウブだねぇ」
 となれば、いま取れる方法はたったひとつ。
「よし、歯ぁくいしばれ」
「え? ちょ、タカくん? 何、なんであたしの頭を掴むの?」
 いい機会だし、口調の件も徹底的に調教してやろう。
 両手で藤の頭を固定しキスをするような体勢に持ち込む。
 そして、
「うりゃぁ!」
「あがっ!」

 渾身のヘッドバッドを、そのヘラヘラした顔に向けて振り下ろした。


 結論を言えば、頭をぶつけた程度で入れ替わるなんてことはできなかった。それどころか何度も頭突きを繰り返したせいで、放課後になったいまでもまだくらくらしている。
 またもや理不尽なことに俺の体はあまりダメージを受けなかったようで、藤はピンピンとしていた。それでもなけなしの釣果として、どうにか男言葉を使わせることだけは約束させることが出来たので、まぁ良しとする。
「なぁ、今日くらい休まないか?」
「だめだめ。俺も藤も、いつも部室にいるだろ?」
 やれといわれてすぐに話し方を変えた藤にはさすがに少しむかついたが、これで当面は気持ち悪い自分を見ずに済む。そう思うと、ほんの少しだが溜飲も下がるというものだった。
「う、上手く言い訳できるのかよ?」
「平気だってば。舌先三寸の二枚舌でいけるから」
 階段を上り、四階の写真部へと向かう。放課後になるとこの区画の人通りはほとんどなくなり、昼の喧騒が嘘のようにしんと静まり返る。
 おそらく夕香先輩は今日も部室にいるはずだ。というか、いない日がない。そして会ったが最後、今朝のことを根掘り葉掘り聞いてくるだろう。思い返してみれば、俺も藤もずいぶんと不審な行動を取っていたもんだ。
「本当に大丈夫なのか?」
「疑い深いなぁ。ダテに夕香センパイの幼馴染はしていないって。むしろタカくん……じゃなくて、藤がボロを出しそうな気がするんだけどな、俺は」
「う……」
 藤の口調は自分とは正反対の性質をしているせいで、演じにくさのハードルが殊更に高い。とはいえ、ほぼ同じ難易度のはずなのにこの女は鷹広の口調をあっさりとマスターしている。つまり俺だって、やってやれないことはないはずだ。
「あは、は。やだなぁ、あ、アタシが本気出せば、このくらい、できる……もん」
「ガチガチじゃねーか」
「うぐっ」
 速攻でダメ出しされた。
 口先でどうとでも先輩をごまかせるようなことを言ってはいたが、これではフォローしようがないらしい。
「じゃあ、あんま喋んないように、とりあえずテキトーにやってけ」
「て、適当って……」
「ほら、行くぞ」
 俺の抗議など聞く耳持たないようで、藤はスタスタと先を行き、やがて部室の前まで辿り着いた。
「ちゃーっす」
 ドアを開け、その後ろに俺が続く。
 いつもならば中に夕香先輩がいて、雑誌を読むかカメラをいじるかしているのがパターンだ。しかし、どうも今日はイレギュラーに恵まれているらしい。
「ごきげんよう藤くん、鷹広くん。そして、待っていたよ」
 腕を組み、ラスボスのような立ちかたをする夕香先輩が、俺達を確認するや否やそう言った。
 眼差しは鋭く、しかし口元は三日月に笑んでいる。その表情だけで、静かな怒りが腹の内側で渦巻いているのが目に見えるようだ。何にご立腹なのかぐらい、床一面に雑誌の散らばった部室を見ればすぐにわかる。
「早速ですまないが、この惨状はいったいどうしたことか納得のいく説明をもらいたい」
 昨日はドタドタしていたせいで片付けにまで気を回せなかったわけだが、こうした理由を包み隠さず言えるものならば初めから苦労はしない。
 どう言い訳したものかと頭をめぐらせるが、先輩はそんな悪足掻きさえをも封じるかのように、矢継ぎ早にまくし立ててきた。
「考えても見てくれ。何も知らず部室の扉を開けると、そこに広がっていたのは本に囲まれた空間ではなく、本に呑まれた光景を目の当たりにしてしまった私の気持ちを、だ」
 早口に、それでいてきちんと相手に伝わる速さで、にっこりとわざとらしい笑みを添えながら言葉を連ねていく。
 先輩は怒りの度合いが激しければ激しいほどよく喋り、笑うといった傾向がある。なまじそれを知っているだけに、いまはその笑顔が怖かった。
「夕香センパイ。実は、藤はずっと、俺の家にいました」
「ちょっ!」
 いきなり大嘘がきた。藤の意識は確かに俺の家にいたのだから、ある意味では本当のことだ。しかし事情を知らない夕香先輩に伝えたところで、それは誤解してくれといわんばかりの情報ではないか。
「ほほぅ、キミの家に?」
「そして、あのデザインについての魅力を一から教え込まされることにより、俺の心を捉えたのですっ」
「おまっ、いいかぐぇむぃ!」
 とんでもないことを続けて言われ、いい加減にしろと異議を唱える。が、口に出す前に藤はその無骨な手でうら若き乙女の口を乱暴に塞いだ。
 ……ちょっと待て。なんだいまの思考ノイズは。
「むー、むーっ!」
「藤くん、いいたいことはわかる。キミ達二人があのガイド服を推すというのなら、私はこれ以上自分の案にこだわる理由はない」
 ぜんぜんわかっていない。
「ね、上手くごまかせたでしょ?」
 こっそりと、俺にだけ聞こえるようなボリュームで耳打ちする。
 さりげなく今朝のこともうやむやになっているし、口がうまいと思わなくもない。その代償として俺の好みがあんなよくわからない背中丸出しのミニスカガイド服だと誤解させられてしまった上に、さらなる問題が浮上してしまうわけだが。
「それにしてもまさか、キミが藤くんを家に招くなんてね。いつのまにかずいぶん仲良くなったね」
「え、あーそれね。それですか。あー、なんといいましょうか。あはははは」
 そこまでの答えは用意していなかったのか、藤は視線を泳がせると乾いた笑い声を上げた。
 なんというか考えが浅すぎる。こんな調子でいつまでごまかしきれるのか、先行きが不安でたまらなかった。


 幸いにもこの件はそれで打ち切りとなり、話題はたったいまデザインが決まった服の製作準備へと移った。
 服を作るには、着る人間のサイズを知っておく必要がある。そして、測る人間は同性の方が望ましいことは言うまでもない。
 ところが、いま現在の俺と藤は夕香先輩の同性であり同性でないというミステリーな状況だ。そういった事情を知らない先輩が、まさか俺の姿をした藤に採寸を任せるはずもなく。
(は、はちじゅういち……)
 吹っ飛びそうになる理性をなんとか押しとどめながら、俺はつい先ほど目の当たりにした数値を反芻することになった。
 いや、正確に言うとあえて意識をそちらに向けている。そうしていないと、ふとした瞬間にこの身体のサイズを思い出してしまいそうになるからだ。
 藤はきっと、脳みそに回す栄養を全部プロポーションのステータスに割り振っているんだろう。
「胸は豊満。胴回りは痩躯。同じ女として、少しばかり嫉妬するよ」
 暗室で二人きりの身体測定が終わると、夕香先輩は拗ねた口調を漏らしながらメジャーを引っ込めた。
 平均サイズなんて俺が知るわけもないが、どうやら先輩は年齢のわりにほんの少しだけ発育が悪いらしく、そのことを気にしているようだ。
「まったく、まだ育っているとはね。いったいどれだけ成長すれば気が済むんだい、キミは」
「そんなこと言われても、お……アタシは、好きで大きくなったわけじゃ」
「世論によれば、大きい胸の持ち主は頭が悪いとかいうね。いや、これは単に独り言だがね」
 一概にはそう言えないだろうが、藤に関してだけ言えばそれはきっと当たっていると思う。俺も似たようなこと考えたし。
 そんな風にどうということもないやり取りをしながらドアを開けると、部室には藤の他にもう一人、ここの学園の制服を着た男子生徒が座っていた。
 小柄な身体に大きめの学ランを着込み、背中まで届く長くて白いハチマキをしている。
 どこかで見た覚えのある顔を向け、二重まぶたの大きな瞳が暗室から出てきた俺と夕香先輩を捉えると、男は椅子から跳ねるようにして立ち上がった。
「部長殿でありますか!」
 中性的なくせに力強さを感じさせる逞しい声が響く。その声が、昨日同じ時間に部室の前で見かけた男子生徒のものだと思い出すのに、時間は必要なかった。
「自分は、雨樋学園一年A組、出席番号十八番。佐藤和弥であります! どうぞ、和弥と呼び捨てて下さい!」
 男の制服を身にまとっているにもかかわらず、実は女ではないかと疑わせるほどの顔立ちとは裏腹に、男はまるで訓練中の海兵隊のような喋り方でそう名乗った。
「和弥は応援部だったみたいですよ。元、ですけど」
 俺と先輩が暗室にいる間にいろいろ話していたのだろう。藤が和弥の自己紹介を補足してくれる。
 そういえば、俺が野球部にいた頃にやけに長い帯のハチマキをした応援団を見かけた記憶がある。身体の芯から震えさせられた大きな声援は確かに、和弥が張り上げる声と酷似していた。
 だが応援部の人間が写真部になんの用なのか。俺と同じ疑問を抱いているらしく、夕香先輩も表情に訝しげなものを浮かべていた。
「それで、どうしてここに? 元ということは、応援部から心機一転し写真部に入部するつもりかな?」
 惚れ惚れするぐらい都合のいい解釈だった。
「いや、こんな時期にそれはないんじゃ?」
 いまはどこもかしこも、学園全体が六月に控えた祭りの準備で目を回している。
 まだ五月とはいえ、このタイミングで新入部員が入ってくるなんて可能性はほぼゼロだ。
「おいおい、なに言ってんだよ」
 呆れた口調で、むしろ俺を小バカにするように、今度は藤が口を開いた。
「応援部を辞めた人間が、それ以外の理由で写真部に来ると思うか?」
「は? いや、でも普通……」
「ほぉ、普通ねぇ」
 完全に人を見下した顔をされる。それが自分の顔だというのが、余計にイラッとさせた。
 カメラで入れ替わるなんてことに比べれば、奨励祭直前の入部希望なんて大して変に思うことじゃない。おそらく藤は、そう言いたいのだろう。
 果たして答えは、どうやら間違いではなかったようで、和弥は相変わらずの軍隊口調に敬礼まで付けて胸を張った。
「ご明察です。自分はいまから、身も心も、この写真部へ捧げてゆく考えであります!」
 一向にボリュームの下がる気配のない大声も、次第に耳に心地良い大きさに聞こえてきた。映画館の音量が腹立たしいほどうるさいとは思わないのと同じ感じだ。藤のようにキャンキャン騒がしいだけでは、こうはいかない。
 和弥は偽りのなさそうな熱心な瞳を、真っ直ぐに夕香先輩へ向けた。
「部長殿。入部の許可を頂けますか!」
「もちろんだとも」
 部員が幽霊を合わせても四人しかいない写真部に入部希望者を選ぶ余裕などない。女顔の新入生は当然のように歓迎された。
「だが、後日改めて入部届けを持ってきてくれ。でないと、正式な写真部員として認められないからね」
「はい、宜しくお願い致します!」
「ああ、それともう一つ。女装に興味があるかい?」
「は?」
「いや冗談だ……キミは、手先は器用かな?」


「藤先輩、その生地よりもこっちのがお勧めです」
「あ、ああ。じゃあ、それにしようか」
 色とりどりの布に囲まれた店の中で、棚に貼り付けられた説明書きを睨みつけていると、横から和弥のアドバイスが入った。
 お勧めといわれても、どこがどう良いのだか俺には判別がつかないが、とりあえず逆らう理由もないので言う通りに従う。
 どうして俺達がこんな大型生地店にいるのかというと、事の起こりは和弥が入部した直後に夕香先輩が聞いた質問から始まる。
 手先は器用かという質問に対し、和弥は自信満々に家事全般が得意だと、男らしさを意識したあの口調で答えたのだった。
 デザインが決まりサイズも測ったいま、残る下準備は作業に必要な物を揃えるだけになっている。部室の片づけを俺≠ノ任せ、先輩は家政科部からミシンを借り、その一方で裁縫に詳しい藤(つまり、いまの俺)と和弥が生地を買いに出ているわけだ。
 とはいえ裁縫なんて五年ぐらい前に授業でエプロンぐらいしか縫ったことしかない俺に、例の服を作るに当たって一番適している布地は何か、なんてわかるはずもない。
「助かったよ。ありがと、和弥……くん」
 両手に買い物袋を提げ、和弥に改めてお礼を言う。この頼れる後輩のおかげで、見当違いの生地を選ばずに済めた。
 感謝の言葉に和弥は照れくさそうに頬をかき、目線をせわしなく空へと向ける。
「お役に立てて光栄であります。正直、自分が一緒にいても邪魔かと思っていました」
「そんなことないって」
 とんでもないとばかりに首を振り否定する。
 なんだか自分の仕草が藤っぽくなっているような気も一瞬だけしたが、その懸念は、あとに続いた和弥の台詞であっという間に打ち消された。
「やっぱ、入ってよかったですよ。尊敬する鷹広先輩や藤先輩のお傍にいられて、こうして助けになれるのですから」
「尊敬?」
 ただの社交辞令と受け止めることも可能だが、それにしては言葉の端に冗談めかしたものはなく、表情も穏やかなりに誠実そのものだった。
 俺は尊敬なんてされるようなことをした覚えなどないし、だいたい和弥と会ったのは昨日が初めてだ。そして何より、あの藤を尊敬できるというその思考回路が信じられなかった。
「なんで?」
 和弥は俺の当然すぎる疑問に答えを返さず、空を見上げたままポツリと呟いた。
「……雨が降りそうですね」
 つられるようにして俺も空を見ると、さっきまでは夕焼け色をしていた雲が、いつのまにかくすんだ灰色をしている。
 いつ泣き出してもおかしくない。そんな空模様だった。


 結局、学園に戻るまでの間に和弥が俺達を尊敬する理由を明かすことはなかった。
 言いたくないのなら無理に聞く必要はないと思い、俺もそれからはその話題に触れずに置くことにした。
「あ」
 廊下を歩いていると、ふいに和弥が声を上げ、窓の外を見る。
 つられて視線を追うと、グレーから黒に変色した景色を映す窓ガラスに、細やかな雨粒が打ちつけられていた。
「降ってきたか……」
「そうですね」
 昨日はいろいろあったせいで、天気予報なんて見るヒマなどなかった。校舎にいる間にやんでくれればいいのだが、雨脚は強まる一方である。
「あ、帰ってきてたの?」
 雨を見ていると、部室の片づけを任命されていたはずの藤がいきなり傍に現れる。外に意識を集中していたせいか、声をかけられるまでまったくわからなかった。
「うわぁ、雨降ってんじゃん。傘持って来てないよ?」
「そうなのですか? よければ、自分が送りますよ?」
「マジ? サンキューなごやん!」
 奇怪なアダ名を叫びながら、藤が和弥に抱きつく。自分の身体が、女顔とはいえ男の和弥を抱きしめる光景などを目の当たりにしているせいか、全身に寒気が走った。
「せ、先輩……」
 和弥は頬など赤く染めて、その抱擁を受け入れている。
 そこでようやく、俺はツッコミをかますだけの力を取り戻した。
「なっ、なんでやねん!」
 いろいろツッコミたいときはこの一言に限る。思わず関西弁になってしまうのが難点といえば難点か。
「なんだよ藤ぃ、男同士、友情を確かめ合っているだけだろー?」
 お前は女だろ! という台詞は和弥の手前、言えるわけがない。
 藤は勝ち誇った笑みを浮かべると、さらに調子付いて見目麗しい後輩の身体をまさぐり始めた。
「せ、せんぱい。藤先輩が見ています」
「気にするな」
 言いながら手を学ランの中に忍ばせる。ワイシャツに浮かぶ不自然なシワが、胸の部分でいやらしくうごめいた。
 和弥の手に提げられていた買い物袋が、音を立てて廊下に落ちる。
「ふふふ、口では嫌がってても身体は正直じゃのぅ。ほれほれ〜」
「や、やめて、下さいっ!」
 金切り声を上げ、ようやく和弥は藤を突き飛ばした。
「はぁ、はぁ、はぁ」
 痴漢にあった少女そのものの表情で息を切らし、やがて背中を向けると、大きな足音を響かせながら階段を降りていく。
 哀れという言葉以外、何も浮かばなかった。
「……何してんだよ、お前は」
「いや、本当に男かなって思って。確認をね」
 たったそれだけの好奇心で、和弥は襲われたわけだ。しかも尊敬すると言っていた相手に、いきなりなんの脈絡もなく。
「ってか、新入部員にいきなりセクハラってどうよ。俺なら辞めるね」
「んー、でも、意外と喜んでいたっぽいし?」
 確かに、和弥の表情には満更でもなさそうな顔もあった。
「案外、ジュネ≠nKだったりしてね」
「なんだよそのジュネってのは」
「んー? わかりやすく言えば、男同士の愛を」
「いやいい、やっぱ言うな、それ以上言うな」
「またの名称をビーエ」「言うなっての」
 ついさっきまで、素直で可愛い後輩だと思っていたのに、藤の一言で和弥はめでたく変人の称号を獲得してしまう。どうやら写真部には俺以外にまともな人間はいないらしい。
「そうだ。部屋のことだけどさ」
「部屋?」
「ほら、奨励祭のこと。広い教室貸してくれるように顧問に頼んでくれたって言ってたじゃない?」
「あ、ああ。そうだったな」
 頼むも何も一秒で却下されたわけなのだから、交渉の余地など残っているはずもない。少なくとも、昨日の時点ではそうだった。
「今日聞いたら、美術室使っていいってさ。初日だけだけど」
「なにぃ!」
 神様はよほど俺の予想を裏切るのが好きらしい。無神論者のつもりだが、こんなときは恨み言のひとつも言いたくなる。
「っていうか、部屋のことぜんぜん考えておいてくれてなかったじゃない。やっぱ昨日の話、嘘だったんだね」
「うっ」
 それを言われると弱い。
「ま、ある程度予想していたから、こっちもそれなりの準備をしていったけどさ」
「じゅ、準備?」
「タカくん勧誘したときと同じ手口♪」
 笑顔でそう言うが、つまりは脅迫だ。
 写真部は学園中の人間の秘密をカメラにおさめている。夕香先輩にまつわる噂の一つに確かそんなものがあったが、もしかしたらそれは本当なのかもしれない。
「そういえば、夕香先輩は部室か?」
「ん、まぁ、ね」
 先輩の名前を出した途端、さっきまで意味もなく楽しげだった表情に影が差した。
 まさかトラブルでもあったのかと、つられるようにして不安になる。
「あ、あはは。やだな、そんな顔しないでよ。ちょっと、考え事してただけだからさ」
「考え事ってなんだ?」
 話の途中でいきなり深刻な顔をされれば、誰だって不審に思うだろう。
「えーと、その……。あはは、さっきから質問ばっかりだね」
 困ったように視線を逸らし、それきり口をつぐむ。だが、それで許してやるほど俺は優しくない。
 さらに問い詰めようと口を開きかけた、そのときだった。
「ああ、ここにいたのかい。藤くんも一緒か」
 廊下に、夕香先輩の声が反響した。
「先輩……」
 視線をずらすと藤の肩越しに、カバンを提げた先輩の姿が見える。
「ちょうど、探しにいこうかと思っていたところだ。見つかってよかったよ」
「何かあったんですか?」
 これ幸いとばかりに藤は矛先を先輩に向け、全力で話を逸らそうとする。とはいえ、俺自身もそれは気になった。予定ではまだ居残り作業をするはずだったのに、カバンを提げた格好はどう見ても、下校時のそれにしか見えない。
「うん。実は、今日はもう解散しようかと思ってね。天気予報を信じるのなら、この雨はこれから深夜に掛けてどんどん酷くなるらしい」
「はあ、なるほど」
「もちろん、藤くんの携帯でその旨を伝えようとはした。が、一向に呼び出しに答えないのでね。何かあったのかと思い、少し心配してしまったよ」
 言われてから、ハッとする。入れ替わってから一度も、俺は藤の携帯に触れていない。そもそも見かけてすらいなかった。
 カバンに入れっぱなしなのか、それともあのゴミに埋もれた部屋のどこかにあるのか。着信音を聞いた覚えもないので、もしかしたら電源が切れているのかもしれない。そんなことを考えていると、何かに気がついたのか、夕香先輩は疑問符の付いた小さな呻き声を上げた。
「んー? 和弥くんはどうしたんだい。一緒ではなかったのかな?」
「あーそれは、ですね……えーと」
 藤が言ったそのままの理由をバカ正直に話せば、俺にはめでたく男を襲う変態≠ニいう栄誉が与えられるはずだ。
 当然、そんなものが欲しいわけがない。ならばどう説明したものかと一秒ばかり頭を悩ませていると、いきなり鋭い光が窓ガラスの向こう側で瞬いた。
「ひゃあああああああああああああ!」
 一瞬遅れて、雷鳴と、それに負けないぐらいの大声が鼓膜を貫く。
「……いまの、なごやんかな?」
「たぶん」
 あんな大声を出せる人間なんて、そうそういない。それにいまの声には聞き覚えもある。廊下で声が響いたことから考えても、和弥がこの棟のどこかにいることはまず間違いなさそうだった。
 だがあんな悲鳴を上げるだけの、いったい何が起こったというのか。まさか雷を怖がっているっていうベタなオチだけはやめてほしい。元がつくとはいえ、応援部の和弥がそんな理由で悲鳴を上げてしまっては目も当てられない。
「俺、見てくる」
 俺の台詞を、藤がそのまま代弁する。
 自分も一緒に行くと言いかけ、しかしそれより前に違和感に気付き、俺は続く言葉を見失った。
「夕香先輩?」
 なにやら様子がおかしい。じっと窓の外を見つめたままの姿勢で、かすかに唇が上下していた。
 読唇術なんてものを学んでいるわけではないが、なんとなく、数を数えているように見えるのは気のせいだろうか。
「……」
 藤は藤で、また表情に陰りを浮かべている。困ったような、もどかしいような眼差しは、夕香先輩を見つめていた。
「じゃ、ここで待ってて」
「あ、ちょ」
 藤が片手を上げ、廊下の向こうへと消えていく。呼び止めようと声をかけようとするが、その前に空を割るような雷鳴が降り注がれた。
「ひゃあっ!」
「え?」
 隣から上がった可愛らしい声に驚くと、ぎゅっと腕が何かに引っ張られる。目線だけ動かすと、怯えた猫のような表情をした夕香先輩が、腕にしがみついていた。
「す、すまない。彼らが戻るまでの間だけ、だから……」
 不安げな声をあげて、腕を掴む力がさらに強まる。
「ど、どど、どうしたんですか?」
「し、知ってるだろ。私は、雷は……」
 ほとんど泣きの入った声が途切れ、ぎゅっとしがみ付かれる。そんな真似をされて、果たして平静を保っていられるかと問われれば答えはノーだ。
「き、キミには面倒を掛ける。それはすまないと思っている。しかし私は、彼らにおいそれと弱い一面を見せるわけにはいかないんだ」
 黙っている俺をどう勘違いしたのか、先輩は早口でそんな言い訳じみたことを言ってきた。
 いつもの聡い雰囲気は完全に消え、子供のように目に涙を溜めた眼差しでじっと上目遣いに見つめられる。
「私は、先輩……だからね。しっかりしなくてはならない。けれど藤くん。キミだけは特別なんだ」
 その一言が、ずしんと、重くのしかかる。
 たとえば、俺が俺≠フままでこの場にいたのなら、夕香先輩は雷が怖いのも我慢して、いつもの無表情を保っていたに違いない。事実、さっきもそうだった。
 俺と先輩との間には、壁がある。それを改めて思い知らされたような気分だった。
 長年の付き合いである幼馴染の藤と、知り合って三ヶ月にも満たない自分とを比べること自体、どうかしているのかもしれない。けれども俺は、夕香先輩に信頼されている藤を、このときとても羨ましく思った。
 単純な話、嫉妬をしていた。
「や、やっぱり、迷惑かな?」
「それはないです」
 脊髄反射でそう答えると、さっきまで心細そうだった先輩の顔つきが、ふっと綻ぶ。
 信頼という二文字が目に浮かんできそうな、初めて見る柔らかい微笑みだった。
 それを見た瞬間、身体の芯が熱くなり、背筋がゾクゾクと震え上がる。一つの想いがとめどなく溢れ、俺の中から冷静さが欠けていった。
 組み付かれていない方の腕が俺の意識から離れ、勝手に動き始める。自分のものでない小さな手が、先輩の肩に近づきかけた、その瞬間、
「わああああああああああああああああああああ!」
「なごやんゲットォォォォォ! 暴れんなコラァ!」

 足元から、ホラー映画ばりの叫び声と、男の怒声が響いた。同時に、俺は手の制御を取り戻し、慌ててそれを引っ込めた。
「……ど、どうやら、和弥くんは見つかったみたいだね」
 言いながら、そろりそろりと俺から離れていく。あくまで俺≠笘a弥の前では、冷静な先輩というスタイルを崩すつもりはないようだ。
「藤くん、わかっていると思うが」
「え、あ、はい」
 先輩は人差し指を立てて、顔の前に持っていく。瞳は威嚇するように細められ、しかし頬は赤らんでいた。
 そんな仕草が、いちいち俺のハートを射止めるわけで。
 そのせいばかりというわけでもないだろうが、煮え切らないでいた自分の気持ちが、いきなり、物足りないと暴れ出した。
 もっと先輩のことを知りたい。藤にしか見せられないという弱い一面を、俺にも見せて欲しい。
 そんな想いが溢れて止まらなくなっていた。


 そのすぐあとに藤と和弥が戻ってきたおかげで、俺の突然燃え上がったこの気持ちは、結局どうすることもできなかった。
 もっともいまの姿のままでは、たとえ何をしたところで先輩の目には藤がまたよくわからないことをやっている程度にしか映らないだろう。
 少し冷静になったほうがいい。昇降口の入り口で滝のように降る雨を眺めながら、そう気を引き締めた。
「それじゃ、また明日〜」
 深い青色をした傘の中で、藤が手を振る。
 そのすぐ隣では、この短時間ですっかり疲れ果てた顔をした和弥が、傘から落ちる雨垂れを左肩で受けていた。
「やっぱり自分、藤先輩と一緒に帰りたいのですが……」
「だぁめ。なごやんと俺は向こう側。夕香センパイと藤はあっち側。方向が逆だろ?」
「うぅ……」
 説明され、和弥はさらに落胆したようだ。
 改めて空を見上げると、雲は限りなく黒に近い灰色を彩り、天空を埋め尽くしている。降り注ぐ雨は今のところ止む気配をまったく見せず、傘や防水スプレーなどといった用意のない俺と藤には、濡れネズミを覚悟しなければならないほどの勢いだった。
 だが心優しい和弥と夕香先輩は、そんな俺達に傘を差し伸べてくれた。
「ほら、なごやん。もっとこっちに来いって。濡れてるじゃないか」
「た、鷹広先輩。あんまり、くっつかないで下さい」
 例のセクハラ行為はうやむやになったのか、一本の傘を二人で使う藤と和弥の間に、険悪な様子は見られない。もっとも和弥はまだ警戒しているらしく、ときどき不安げな顔を俺に向けてくる。
 俺達が聞いたあの悲鳴は、やはり和弥のものだったらしい。予想通りというか期待はずれというか、藤が首根っこ引っつかんで連れ戻した和弥もまた、雷が怖くて思わず声を上げてしまったんだそうな。
「にしても、んふふ、可愛かったなぁ、あのときのなごやん」
「先輩ぃ、それはもういいじゃないですかぁ」
 二人はそんな風に雑談しあいながら、雨の中に消えていった。
「行ったね」
「ですね」
 二人の姿が見えなくなるや否や、先輩はきゅっと身を縮こまらせる。器用なもので、目じりには早くも涙が浮かんでいた。
「か、帰ろう。はや、くぴぃっ!」
 先輩の言葉を阻むかのように、空が雄たけびを上げる。
 続く言葉が悲鳴に代わったのだろうが、まさか端麗という言葉が似合いすぎる先輩の口から、『くぴぃ』だなんて鳴き声が聞けるとは思ってもみなかった。
 実に反則極まりない。何がってもちろん、その可愛さがだ。
「一つ、た、頼みが、あるんだが」
「頼み?」
「その、なんだ、手を……ね」
 もじもじと身体をゆすりながら、懸命に何かを言い出そうとしている。しかしその先の台詞は、空気の読めない雷鳴がまたもや遮ってしまった。
「ひ、ぐっ、うう」
 もはや人語を繰り出す余裕すら失われてしまっているらしい。先輩は泣くのをどうにか堪えているような表情で、なぜか俺のスカートをじっと恨みがましく見つめてくる。
 と、今の格好を再認識した途端、俺が女子の制服を身に着けているという、この筆舌に尽くしがたい違和感が舞い戻ってきた。せっかく意識せずに済むようになっていたのに、気恥ずかしい思いはそれで一気にぶり返してくる。
「あ、あんまり見ないで下さい」
 両手でスカートをかばうように押さえ、内股を閉じる。身体が覚えているのか、藤に写真を撮られたときといい、なんでかこういった反応を自然と返せるようになっていた。
 早くも身体に馴染んできているのかもしれない。おぞましい考えではあるが。
「……ほぅ」
「夕香先輩?」
 なぜか喜ばしささえ感じられるため息をつき、さっきまで怯えきっていたはずの顔つきがすっかり払拭される。むしろ、ふいに手品を見せられた観客のような、感心と戸惑いと興味とが混ざりあった複雑な表情をしていた。
「朝から思っていたのだが……今日の藤くんはやけに可愛いね」
「は?」
 予想だにしなかった台詞に、つい素の返事がこぼれ出る。
「か、可愛い?」
「うん。慎ましやかというのかな、いままでになかったキミのその反応は、見ていてとても好ましい。萌えるじゃないか」
 その単語はわかりやすいようでいて、実にわかりにくい。
「あの、どこが変でした?」
「変じゃない、可愛いと言っているんだ。特に先ほどの反応は最高だった。手を見ていただけの私にスカートを見られていると勘違いし、赤面しながら慌てふためいていたキミの姿など心が躍る。私が男なら押し倒していたところだ」
 冷静な口調でさらりととんでもないことを言ってくれる。
「さて、意外性は存分に堪能させてもらった。あとは、いつものように有無を言わさず私の手を握ってくれればいい。というか握ってくれないと、このままじゃ帰れにゃあ!」
 しつこい雷鳴が、先輩の語尾をまたもや萌え語に変えた。
 さっきまで余裕綽々といった表情ですらすらと喋くっていたのに、いまは身を縮こまらせぎゅっと口を一文字に結んでいる。本当に変わり身が早い人だ。
「さ、さあ、藤くん」
 涙ぐんだ声を上げ、左腕を伸ばす。
 中学生じゃあるまいに、こんなことで動揺をしてしまう自分が少し情けない。だが頼りなさげに差し出された小さな手を拒むことなどできるはずもなく、俺は先輩と逆の手で、そっと握り返した。
 絡ませた指の間に、ぬくもりが伝わってくる。
 その温かさだけで、目が回りそうだった。


 四ノ宮家は、学校から徒歩でだいたいニ十分ぐらいかかる。幼馴染である夕香先輩の家にしてもおそらく距離はそう違わないだろう。つまりその間、この恥ずかしさと緊張からは開放されないということだ。
 薄紅色をした傘の下で手を繋いだまま二人並び、ざんざんと降りしきる雨の道を歩いて行く。特に会話もないまま、それでも気まずい雰囲気というわけではない、心地の良い沈黙がしばらくの間流れた。
 どのくらいそうしていたのか、唐突に繋いだ手の力が強まる。
「先輩?」
 振り向くと、先輩は繋いでいない方の手で片耳を塞いでいた。
 それに俺が気付くのとほぼ同じくして、青白い光が目の前いっぱいに走る。やや遅れて、空はいままでとは一味違う、空気を突き破るようなひどい轟音をがなり立てた。
「ひんっ」
 夕香先輩はこれ以上ないほど身を縮こまらせ、ほとんど泣き顔になっている。その必死さは、痛いほどに握られた手の熱さが存分に物語ってくれていた。
「あの、せ、先輩。手」
 俺の言葉が終わらないうちから、せっかちな雷がまたもや怒鳴った。
 男のときなら大したことはないと感じられるような力でも、女の身体では耐久力が低いのかメリメリと指が悲鳴を上げている。
 藤が貧弱なのか、先輩の握力が規格外に強いのか。
 いずれにせよ、折れるとまではいかないものの、押し潰される痛みを好き好んで耐え忍ぶ趣味など俺にはない。
「えぇっと……そういえば、先輩。さっき、何を数えていたんです?」
「う、うん?」
 話題を振ることで、雷への恐怖心を逸らすことができたのか、わずかながら握る手の力が弱まった。
「ほら、学校で何か数えていたじゃないですか。和弥を探していたときに」
「あ、ああ。あれか。父の教えでね」
「お父さん、ですか?」
 その相槌に先輩はなぜか目をパチクリとさせ、まじまじと俺を眺めた。しかしそれも数秒のことで、すぐにまた怯えたハムスターのような顔つきに変わる。
 手の握り方は、だいぶ優しいものに戻っていた。
「雷が光ってから鳴るまでの時間を計り、光速と音速の差を利用して距離を導き出す方法なんだ。一秒でだいたい二百メートルぐらい発生源から離れていると考える。これによって、身の振り方を考えみゃあああっ!」
 本当に年上かと思うぐらい可愛らしい悲鳴を上げ、先輩の雷講義が中断される。
 空はそうとう機嫌が悪いらしい。さっきからずいぶんゴロゴロゴロゴロうるさい。
「ががが、学術的に、たた正しいかどうかは、保証は、ない。が、父の言葉だ。信じるに値する」
 健気にも講義を続けてくれるが、すでに俺の意識は涙目になっている先輩にしか集中していなかった。
 両腕でしっかりと俺の腕に絡み付いているおかげで、吐息が掛かりそうなほど身体が密着し、薄いなりにも微かな膨らみの感じられる胸板が押し付けられている。
「ぐすっ、うん? 何をニヤついているのかな?」
「いや、その、胸が……あ」
 思わず、素がでてしまった。
 先輩はメガネのレンズからはみださんばかりに瞳を大きく開けて、きょとんとしている。それはきっと、正しい反応だろう。幼馴染の、しかも同じ女から、そんなことをいきなり言われたのだ。
 できれば一笑に付して欲しかったが、そうそううまく事は運ばないらしい。
「……イヤミかな?」
「え? ひゃあ!」
 いきなり胸をつかまれた。
「この、はちじゅうきゅうのEという胸の持ち主であるキミが、固いし小さいしで中学の頃から成長のない私の胸に触れた程度で本当に至福を感じるのかと私は問いたい、小一時間問い詰めたいっ」
「ちょ、あの、せんぱ……」
 むにむにと先輩の手のひらが俺の胸を乱暴にこね回す。弄り回されるくすぐったさと、男のときではありえなかった胸を触られる感覚が、どうにか冷静になろうとする脳みそを逆方向へと導いていく。
「んっ」
 ノドの奥から、艶かしい声が漏れた。巨乳は感度が悪いというが、さすがに攻め続けられればそれなりに感じるらしい――っていうかちょっと待て。
 このままではシャレにならない。昨夜この身体に欲情するものかと誓ったばかりなのに、早くも瓦解してしまいそうだった。
 脳裏によぎるのは、先輩が査定した数字と見下ろせばすぐに視界に飛び込むその実物。
「ちょ、ほ、本当にやめてください、謝りますからっ」
「むぅ……」
 いささか不満げな声だったが、先輩は了承してくれたのか、胸への陵辱をやめてくれた。
「仕方ない、今日はこのくらいにしておこう……。私だって、その、胸の事は気にしているのだから、あまりからかう真似はしないように頼む」
「はぁ……はぁ……は、はい……」
 からかったつもりはないのだが、とりあえず頷く。どうやら胸関連の話はタブーのようだ。やはり、先輩も年頃の女の子というわけか。
「しかし残念だよ」
「な、何がです?」
「決定的瞬間を逃してしまった。胸を触っていたときのキミの表情、おそらくはハリウッドも夢ではなかった」
 それから先輩は、実に流暢に四ノ宮藤という少女の可愛さについて語り始めた。
 ちょっとした不可抗力に思春期っぽく反応して見せただけだったのに、どう間違ったら藤の魅力の話にまで結びついてしまうのだろう。すっかり雷も気にならなくなったらしく、歌うように藤のアピールポイントを聞かせられる。
「恋愛経験ゼロの不器用で無愛想な私より、キミの方がずっと可愛いに決まっている。胸も大きいしね。事実、藤くんの人気は校内で五本の指に入るというもっぱらの噂なのだよ。洗濯板の私に対して流れる噂とはまさに雲泥。魅力の格差が知れるというものさ」
 そんな藤よりも、俺にとっては先輩が一番なんだと。そう言いたい。ついでに、胸の大小など好きという気持ちの前ではまったく問題ではないのだとも言ってやりたかった。
 しかしこの姿でそれを言っても、さっきのようにイヤミか何かと勘違いされるのが関の山だ。ならば、自分の本当の姿で、洗いざらいの気持ちをぶつけてやるしかない。
 元の身体に戻り、夕香先輩に告白する。
 雨音を聞きながら、そして、隣でまだ藤を褒める先輩の声を聞きながら、俺はその決意を心に刻み付けたのだった。

        *        *        *

 男子三日会わざればかつ目せよ、なんてことわざがある。男の成長は早いから、数日でずいぶん変わるんだとかいう意味らしい。
 それが特にどうしたというわけではないが、その成長が適応力とか順応性とかにもあてはまるのかなと、ふとそんなことを思う。
 藤の身体になってから三日目が経とうとするこの日、四時間目の授業枠は体育だった。
 クラスメイトの半数が抜け、女だけとなった教室で、俺は背徳感と緊張が混ざった嫌な汗をかいていた。だがそこから先は、健全な十代男子学生を自覚している自分を疑いたくなるような思い出に包まれている。
 なんでかって、すぐ隣で制服を脱ぐクラスメイトに対して、なんの恥じらいも喜びも感じられなかったのだ。それだけならまだしも、ストライプのブラジャーに包まれた学友の胸を見て、自分の方が大きいかなとか、ちょっとした優越感まで抱く始末だった。
 認めたくはないが、俺の感性はどんどん身体に馴染んできているらしい。四六時中ドキドキしているよりはマシかも知れないが、慣れは危機感をなくしてしまう。手放しに歓迎はできなかった。
「藤、いったよっ」
「うわっと!」
 クラスメイトの声で現実に引き戻された瞬間、目の前にバレーボールが迫ってきた。
 反射的に身を引き、レシーブを返す。ボールはそのまま他のメンバーへと渡り、最後は一際いい動きをしていたストライプブラの大和が相手のコートにスパイクを叩き込んだ。
「うっしゃあっ、ゲームセット! ナイスパス、藤っ」
「あ、あはは、サンキュ」
 ガッツポーズなどを決め、黄色い歓声が勝利を喜ぶ。意外といってはなんだが、藤の身体はかなり反射神経が磨かれていた。
 隠し撮りで鍛えられていたのか、それとも別の理由からかは知らないがずいぶんと基礎体力も高いようで軽やかに動ける。
「ねー藤ぃ、まだ坂上先輩のクラブにいるの?」
 しげしげといまの自分の身体を見下ろしていると、ふいに、大和が声をかけてきた。
「あんなところ辞めて、ウチに復帰しなよ。ゲキ部はみんな、藤の帰りを待っているんだから」
 どうやら藤は、写真部に来る前は演劇部に所属していたようだ。どうりで、やれと言われてすぐに俺の真似ができていたわけだ。
「きっと、坂上先輩にたぶらかされたのよね? ああ、かわいそうな藤!」
「な、なんで先輩が」
「なんでって……『センパイが困っているみたいだから、辞めます』って言ったの、藤じゃない。泣き落としで入部させるなんて、ホント卑怯な先輩」
 自分の好きな人の悪口を目の前で言われるのは、非常に不愉快だ。
 ならば俺は、坂上夕香の非常に魅力的な人となりをこいつに教えてやればいいのだろうが、その思いとは裏腹に自分の口からは誤解を否定する言葉しか出てこない。
「先輩は、卑怯なこととかしないから……」
「うーん、どうかなー?」
 納得しきれないのだろう。大和は首を捻り、難しげに顔をしかめていた。
「こらー、あんたら話してないで並びなさい。号令かけるよ」
 それまで傍観していた体育教師がホイッスルを鳴らし、集合をかける。
「……ま、この話はまた後でね」
 困ったような顔をしたまま、大和が俺のそばを離れていく。一方で、俺は何も言えなかったことに少なからずショックを受けていた。
 考えてみれば俺は先輩のことをほとんど知らない。出会ったのは進級してからなので、一ヶ月と少し程度の付き合いでは当然といえば当然なのかもしれないが……それでも、漠然とでも「好き」とか思っている以上、もっとアクティブに動くべきなんじゃないか。
 藤の身体になっているいまなら、先輩のことをもっと詳しく知ることができる。これはチャンスだ。
 しかしそれとは逆に、立場を利用してそんな真似をするのは卑怯だと、もう一人の俺が言っていた。
 結局のところ、例のカメラが戻ってくるまでは現状維持しておくという、なんとも情けない逃げ腰な選択を選ぶしか、俺には出来なかった。


 午前の授業が終わると、誰も彼もが浮き足立ったように落ち着きをなくす。
 その隙を突いた、なんてご大層なものではないが、例のことを大和に追及されるより先に、俺は教室を飛び出し、昼休みで賑わう廊下を歩いていた。
 逃げるためだけに飛び出したのではない。その足で、ついこの間まで自分のクラスだった教室に行くと、俺は自分の姿を探した。
 藤はうまくやっているか、少し気になったのだ。
「いないな……」
「お、なんだ四ノ宮じゃん」
 教室の中の一人が、俺に気付き近づいてくる。何かとつるむことの多い、クラスメイトの武蔵だった。こいつなら俺≠ェどこにいったのか知っているかもしれない。
 俺はすぐさま藤の行動パターンを頭の中で思い描き、肌が粟立つのも我慢して精一杯口を動かした。
「や、やっほー武蔵君。ねぇねぇ、ちょっと聞きたいんだけど」
「なんだよ、いきなりクン付けなんて気持ち悪い奴だな」
 やはり無理があったのか、武蔵は怪訝な顔を返してくる。
「あ、あははは。そ、そうかな」
「いつもは俺がやめろって言っても、むーくん呼ばわりしていたくせに。ま、いいや。なんの用?」
「えーと鷹広君、じゃなくて、た、タカくん。どこに行ったか、知らない?」
 自分をアダ名で呼ぶほど寒気のするものはない。いますぐ穴を掘って隠れてしまいたい気分だ。
「んー、あいつなら学食じゃね? 体育着のままだったから、すぐに見つかると思うけど」
「そ、そう、ありがと」
 体育着のまま学食直行って……体育会系男子か、あいつは。いや、まあ俺だって元は野球部で、体育会系男子の端くれだったわけだが、そんな真似は一度だってしたことがない。
 少し注意しておいたほうがいいのかもしれない。今更何を言ったところで聞かないだろうが、言わないでいるよりはずっとマシだろう。

 そういうわけで学食に来たはいいが、俺はすぐさまここに足を踏み入れたことを後悔した。
 そこかしこが腹をすかせた生徒で埋め尽くされ、通路を歩くだけでもひと労力が必要そうなほどの混み具合を見せている。当然、遅れてやってきた俺に席を譲ろうだなんてナイスガイが現れることもない。
 食事をしにきたわけではないのだから、空席の有無など正直どうでもいい。だが悲しいかな、厨房から漂う香ばしい匂いが朝から何も入れていない胃袋を刺激している。
 せっかくだから菓子パンの一つでも買っていこうかと購買に目を移すが、すでに争奪戦は終了したあとらしく、空っぽのかごの中には『完売』というプレートがポツンと置かれているだけだった。まったくいい事なしだ。
「はぁ〜」
「あれ、藤先輩?」
 やるせない気持ちをため息にしていると、二人掛けの席に一人で座っていた男子生徒が顔を上げた。頭の動きに合わせて、白く長いハチマキが揺れる。
「な、和弥――じゃなくて、なごやん」
 武蔵での反省を活かし、今度は呼び方にも注意してみる。が、またしても変な顔をされた。
「ふ、藤先輩までそんな呼び方するのでありますか。勘弁してください」
「あ、ああ、悪い」
 言われてみれば、藤が和弥と会ったのは入れ替わった後なのだから、この姿では和弥をあだ名で呼んだことはない。ええい、ややこしい。
「藤先輩も食事ですか? よかったら座りません?」
 テーブルには、食器が幾重にも積み上げられ、そのほとんどが完食されていた。あの小柄な身体のどこにそれだけ入るのか不思議でならない。
「い、いや、でも誰か一緒なんじゃ?」
 友達と一緒にいて席をキープしているという話なら、俺がここに座る権利はない。それが学食のルールだ。
「いいんですよ、あんなの」
 箸を休め、どうしてかいまいましげに顔をしかめる。
「ななななごやきゅんっ! そっ、その女は誰だい!」
 狼狽した声がいきなり話に割り込んできた。
 振り返ると、メガネをかけた痩せ枯れ風の男が、わなわなと震えながら俺達を見ている。普通よりも丈の長い学ランとハチマキという出で立ちは和弥そっくりだが、いかんせん細身のせいか不恰好にしか見えなかった。
「あーセンパイ、ご苦労様であります。もう帰っていいですよ。自分、この人と食べることにしましたんで」
「ぼぼ僕と一緒に食事してくれるっていったじゃないかっ! あれは嘘だったのかい」
「人聞きの悪い。別に、今日とは言ってないじゃないですか」
「ノォゥ!」
 ひらひらと片手で風を送るつれない和弥の態度に、メガネの男はアメリカンテイストに片手で頭を押さえ天井を見上げる。そのポーズのまま数秒固まっていたかと思えば、指の隙間から覗く悔し涙の滲んだ目が俺を睨んだ。
「……これで勝ったと思うなよ」
 わけのわからないことを言い、男は大股に立ち去っていく。
 何かいま、理不尽な恨みを買われたような気がした。
「いまのは?」
「先輩です。応援部にいた頃の知り合いなんですけど、いつもあんな調子で気持ち悪かったんです」
 応援部にしては、ずいぶんとヒョロヒョロした男だった。人を見かけで判断してはいけないが、応援団ならばそういった要素も結構重要だと思う。
 女顔の奴やモヤシみたいなメガネ男に応援されて、果たしてやる気が奮い立たせられるかどうか疑問が残るところだった。
「そんなわけで座ってください。ああ、こっちのカレーはまだ食べてませんから、よければどうぞ」
「う、うん」
 さっきのモヤシメガネには悪いが、いつまでも通路に立っていては邪魔だ。
 俺が素直に二人掛けのテーブルに座ると、和弥は笑顔を見せた。
 それにしても藤を探しに来ただけなのに、どうしてこんなことになっているのか。そんな俺の考えになど気付くはずもなく、和弥はとうとうと語り始めた。
「自分、昔から男にベタベタされるんですよね。なんででしょう。でも自分は男らしい人が好きなのであります。漢と書いてオトコと読むような、男の中の男と呼べるような、そんな人が。だいたい、男が男に媚びへつらうなんて、そんな男は男じゃないです」
「はぁ」
 やたら男という単語を連発しながら、男の中の男だなどと死語とも言えるような古めかしい単語をいきいきと羅列する後輩に対して、残念ながら俺は適当な相槌しか打てない。だいいちそんな理論を曲がりなりにもいまは女の俺に対して語る話ではないと思うのだが、和弥はまったく気にしていないらしくべらべらと早口にまくし立てていく。
「生まれながらにして運動音痴の自分はスポーツができる身体ではなく、それでも男らしさを追求していきたい一心から応援部に入部しました。しかしフタを開けてみれば、そこはただの喋り場っ! なんとか立て直そうと奮闘するも先輩達はどうしてか自分にデレデレするばかりで一向に男らしさのカケラも見せない始末でありますっ」
 口調に少しずつ怒りが混ざり、箸を進める手はまるでヤケ食いをするように素早くなっている。黙ってさえいればどう見ても男装した美少女にしか見えない顔が、眉を吊り上げて無造作にどんぶり飯をかっ込んでいく様は見ていてとてもシュールだった。
「ちょっと待った。それならなんで写真部に来たんだ?」
 応援部に絶望したからって、文化系クラブに入るいわれはない。
 俺がそう聞くと、和弥はどんぶりと箸を置き、急に真面目な顔つきになった。
「尊敬するお二人が、あの部にいたからであります」
「へ?」
「自分、野球をやっていた頃の鷹広先輩や、演劇をやっていたときの藤先輩のお姿を拝見したことがあるんです。はっきりいって、一瞬で惚れました。これぞ、男の中の男の姿だって」
「藤は、いや、あ、アタシは、女なんだけど」
「漢という字に、男も女も関係ないのです」
 上機嫌に目を細め破顔する。
 少しだけだが、応援部の連中が和弥を構いたくなる気持ちがわかった。
「期待の星といわれていたお二方が、いきなり写真部に転属したことが自分には不思議でありました。あの部活にはそれほどの魅力があるのかと思い、それを知るため入部したのです」
「悪いけど、ウチも和弥のいう喋り場とほとんど変わらないよ」
「尊敬する人がいるのなら、それも男を磨くために必要なことなのだと思います!」
 なんとも都合のいい頭をしているものだ。恋は盲目という言葉があるが、それは恋に限った話じゃないのかもしれない。
 結局、俺はそのまま昼休みが終わるまで、和弥の愚痴に付き合わされてしまった。


 今日最後の授業枠を使ったロング・ホームルームで、藤のクラスは模擬店の準備を着々と進めていった。
 具体的に言うと、遥か昔の中国における稀代の悪女・妲己さんも泣いて首を振りそうなほどきわどいスリット入りのチャイナ服が、一着また一着とこの世に生み出されていった。
 だがいまは教室中の人間が作業の手を休め、対峙する二人の男女を遠巻きに見守っている。
「スリットはギリギリが重要なんだよ、ギリギリがっ!」
「だから、ギリギリでアウトしているじゃないのさ。ギーリーギーリーアーウート」
 頭の痛くなりそうな激論を交し合う二人を眺めながら、俺は事の起こりを思い出す。
 はじまりは、大和の発案からだった。
 いまでさえありえないぐらい短いというのに、この上さらにスリットを短くしようというその発言に、ついに奨励祭実行委員の男がキレたのだ。
『振る舞いには注意するようにって、風紀委員から言われているんだ。ハレンチすぎる!』
 とまぁ、非常に好感の持てる真面目クンぶりを発揮してくれたまではよかったが、問題はそのあとである。
『そして大和よ、お前はギリギリセーフの美しさを何もわかっていないっ』
 なんのことはない。この男もまた、藤や大和サイドの人間だっただけだ。
 藤といい大和といい実行委員といい、このクラスにはずいぶんと頭の腐った人間が多い。前にチャイナのコスプレは藤の提案ではないと言っていたが、なるほどこんなクラスメイトどもではたとえ藤がいなくとも同じ結果を導き出したろう。
 俺は目眩を堪え、耳を塞いでしまいたい気分でざわめきの中に身を置いていた。
 ついでに言うと頭痛の原因はこの教室だけではない。壁越しからも男女入り混じった歓声が聞こえ、なぜか俺の名前が褒め称えられている。
「おおーーっ! シビレルゥ!」
「鷹広ぉっ。お前はいつかやってくれると信じてたぜ!」
 ウチのクラスの企画は幕末についてのレポート展示だし、面白味なんてどこを探してもないはずなのに、この異様なほどのエキサイトモードはなんなんだ。
 肝心の俺≠フ声は、どういうわけかまったく聞こえてこないし。
「いやっほーっ、鷹広最高ーっ!」
「絶対領域って言葉、知っているか? 出せばいいってもんじゃないんだよ」
「じゃあ委員長は、エロ雑誌の星マークに萌えられるの? ハアハアできるの? そんなわけないよね?」
「…………」
 頭痛薬って、保健室にあったかな。


 なんとか保健室の世話にならずに済んだ俺は、おぼつかない足取りで部室に向かっていた。先に藤が何を話していたのか問い詰めたかったが、昼間に続いてまたもすれ違ってしまったらしい。
 写真部と書かれたプレートを提げるドアを、いつものように二回叩く。
 やっぱりというか、返事はない。何もかもが変わってしまった環境の中で、ここだけはいつも通りだ。
 それが少し嬉しい。まるで先輩がいまの俺を俺≠ニして受け入れてくれているようで、そう思うと気持ちが楽になっていく。
「…………」
 本棚のない書庫という表現がぴったりの写真部には、相変わらず文学少女っぽい雰囲気で雑誌に目を落とす夕香先輩がいた。
 どこか物憂いげに見える横顔で夕焼け色をしたページをめくり、小さなため息をつく。俺に気付いていないのだろうか。
「……藤くん」
 目線は手元に向けたまま、先輩がポツリと呟く。逆光のせいで薄暗くなっている表情がそう思わせるのか、その声はどことなく暗い。
「キミの差し金かな」
「な、何がですか?」
 ジロリと横目に振られた眼光が、俺から狼狽の言葉を引き出した。何もやましいことはないのに、これでは自ら灰色だと言っているようなものだ。
「鷹広くんの奇行はキミの計画なのかと、そう聞いている」
 雑誌を閉じ、目線は俺をロックオンしたまま顔を向けてくる。
 憂鬱そうに見えたのは夕焼けマジックでしかなかったのか。しっかりと直線を結んだ唇は、先輩の気分が不機嫌であることを表していた。
「あの、奇行って?」
 変人の名をほしいままにする夕香先輩がそう評価するほどだ。よほど普段の俺とかけ離れたことをやらかしたに違いない。
「藤……じゃなくて、タカくん、何をしたんですか?」
「白々しいね。といいたいところだが、さすが元演劇部。本当に知らないのかと思ってしまったよ」
「演技じゃありませんって」
 やけに疑い深い。
 幼馴染にここまで嫌疑を持たせるほどの奇行ってなんなんだ? それとも普段の行いがそうさせるとか?
 ……ああ、うん、納得。
「だから鷹広くんが、その、私を」
 どうしてかいきなり歯切れを悪くし、顔を真っ赤に染めていく。
 ああもう、いったい何したんだあのバカはっ。
「せ、先輩を?」
「……で」
「で?」
「デートに、誘ってきた」
 メガネが曇るんじゃないかってぐらい顔を熱っぽくし、蚊の鳴くような声で、先輩はそう言った。
「は? いや、あの、ちょっ」
 オーケー落ち着け。
「なっ、なんすかそれぇぇぇぇぇっ!」
 やっぱ無理。
「ここ、こっちが聞きたい! キミの策略だろう? じゃなきゃ、なんでいきなりあんなことになるんだ!」
「あんなこと? あんなことって、何されたんですか!」
「ぶ、部室に来るなり私の手をとり『デートしてください』? ドッキリにしてもお粗末だ! 脚本を練り直した方がいい!」
「そ、そんなことをっ? っていうか仕込んでいません!」
 なんでこうも俺を黒幕だと思い込むのかわからなかったが、とにかく問題は藤が俺の姿で先輩をデートに誘ったことだ。
 何を考えているのかなんて、こっちこそ知りたいね!
「いいかい、この展開が藤くんの意図によるものでなければ、私はどうすればいい? あんな……あんな赤面を禁じえない行動が万が一にも素の鷹広くんの気持ちだと言うのならばっ、私は卒業までファントム≠フ衣装が脱げないではないか! つまり彼の行動は私をおもんぱかった末のキミによる罰ゲームだ。そうだろう、そうだと言ってくれ!」
 半分以上が意味のわからない話を、こちらの言い分を挟む隙間もないほどの早口で一気に語られる。
 とはいえこっちも、なんか必死な先輩も可愛いな、ぐらいにしか頭が働いていない。いつも無愛想な先輩の普通ではまず拝めない珍表情に俺の意識はすっかり傾いてしまっていた。
 そんな場合じゃないだろと思いつつも、抱きつく・抱きつかないの選択肢が脳内で踊る。いまの俺は女なんだしちょっとぐらい抱きついたっていいかナー。という身もフタもない結論にまで到るまで時間はそれほど掛からなかった。
「せんぷぁーーーーーーいっ!」
 そう、こんな感じで全力で叫びながら夕香先輩に突撃……って。
「うわああああああああああん!」
 他人のテンションを吹き飛ばすような大声が、廊下から徐々に近付いてきた。
「この声……」
「……彼か」
 顔を見合わせ、無言のままドアに目を向ける。
 どうやらお互い、ちょっと冷静さを取り戻せたようだ。
「助けてください! 助けてください先輩ぃっ!」
 世界の中心でも通用しそうな叫び声と共に部室のドアを開け放ち、俺と藤をよくわからん理由で尊敬視する美少女ヅラの後輩が姿を現す。
 何があったのか知る気にもなれないが、トレードマークの長ランが少し乱れていた。しかも泣き顔。ここが四階じゃなきゃ、いますぐ窓から逃げ出していたところだ。
「じ、自分、デートに誘われながら汚されたのでありますっ!」
 いっそアイキャンフライした方がマシだったかもしれない。
「な、和弥くん落ち着くんだ。……誰に誘われたんだい?」
 わかっているのかいないのか、先輩は自ら地雷を踏みにいく。
「鷹広先輩です! イ、イメージが、ガラガラガッシャンなのですっ! うわあああああん!」
 あまりのショックに思考力が一時退行でもしているのか、和弥は幼い語彙で俺の破滅を告げた。
 男を、しかも先輩を口説いた直後にデートに誘うなんて、もはやタラシとかそういうレベルではない。
 しかも汚されたってことは、おそらくまたセクハラまがいのことをやらかしたのだ。そんな男を好きになる女がいるだろうか。俺なら速攻でイチイチゼロ番を要請する。
「いや……そうか、そういうことかっ」
「先輩?」
 てっきり俺を失望する言葉が出てくるものだと思っていた夕香先輩の口から、意外なほどイキイキとした台詞が出てきた。
「わかったぞ……つまりこれは、課外部活動計画だったんだ!」
「なっ、なんだってーッ?!」
 と、驚いて見せるが実のところ何を言っているのかさっぱりわからない。
 だが尋ねるまでもなく、先輩は緊迫した雰囲気で早口に説明を始めた。
「藤くんの差し金でなく鷹広くんが私をデ……デート、に誘い、その直後に同性である和弥くんを誘ったこと。これでその単語に対し一般的に用いられる異性同士による逢引の約束、という意味は放棄されたと見ていいはずだ。ここで質問だが和弥くん。キミは彼とどのような約束をした?」
「あ、明日、十一時に……駅前の喫茶店で」
「やはりそうか、実は私も同じだ! そう、つまり鷹広くんは写真部のみんなで遊びに行くことを、デートと呼んだんだよ!」
「なっ、なんだってぇーーーッ?!」
 今度はしっかり意味のわかった上で、改めて驚く。
 何がびっくりって、先輩のその考え方にだ。いままでの俺を知っていれば、間違ってもそんな結論は出てこなかったはずだし、俺自身、今後も先輩が言ったような真似をするつもりは一切ない。というかできない。
 それにセクハラ問題がノータッチだ。いくらなんでも遊びに誘うのに服の下をまさぐるとか、ありえないんだけど。
「そ、そうだったのですか……」
 あれ? 納得している?
「というわけだ。きっと藤くんもデートに誘われるだろうが、毅然とした態度で臨んでくれたまえ」
「は、はぁ……」
 ぜんぜんちっともさっぱり納得できない俺は、そんな風にして曖昧に頷くしかなかった。
 どうやら二人はかなり混乱しているらしい。


「アホかああああああああああああああああああ!」
 月を描いた窓ガラスに向かって、俺は甲高い声で吠えた。
 呼応するように近所の犬達も鳴き出したが、そんなものは俺の知ったことじゃない。
 四ノ宮家が所持する夢の島ルームにおける唯一といっていい安全地帯のベッドに顔を埋め、怒りの矛先を枕にぶつける。
 本気でわけがわからなかった。
 いうなれば俺と藤は、運命共同体である。元に戻るためにお互いがお互いを支え、時には助け合い窮地から抜け出す、そんな関係を築いていくのがベストのはずだ。
 それなのにあいつは毎度毎度、まるで嫌がらせのように暴走を繰り返す。
 ならばこちらも好き勝手してやればいい。そう思っていても実行できないのが、鷹広という男、つまりこの俺なのだ。
 だがさすがに今回はギリギリすぎた。もし夕香先輩があの盛大な勘違いをしてくれていなかったら、俺はこの身体を道連れにアイキャンフライを実行していたかもしれない。いや、一瞬だがしようと本気で思った。
「あと、何日だぁ?」
 ごろりと寝返りを打ちながら、切実に呟く。
 藤の話では、週明けにはあのカメラが修理から戻る予定だ。それで無事に元の身体に戻れれば、こんなわけのわからない苦しみや哀しみからは解放され、俺はようやく男として夕香先輩に想いを伝えられる。
 来週からはいよいよ奨励祭も開催されるし、そのときに自分の気持ちを伝えるのもいい。
 とにかく、これ以上はもう限界だった。
「いっそ全部話したほうが簡単だったんじゃねぇ?」
「でも、どうやって説明する気? カメラで入れ替わりましたなんてネタ、なにそのエロゲ状態じゃん」
「…………お前の言っていることはちっともわからんし、わかりたくもない。それと、どっから湧いて出た」
「ちっ、驚かないんだ」
 藤は聞こえよがしに舌打ちをすると、積まれた本を椅子代わりにして微笑んだ。
 自分の顔を見てこんなにもムカついた気分になったのは、初めてかもしれない。
「それにしてもご挨拶だねぇ。ここ、元はあたしの部屋なんですけどー?」
「いまは俺の部屋だ。ってか、よく顔を出せるな」
「おぉう、もしかして怒ってる? なんで?」
 何も知りませーんとでも言いたげな態度だが、もちろんそれを鵜呑みにするほど俺はお人よしではない。パーが出なかっただけ感謝して欲しいくらいだ。
 ……なんでパーだよ。グーだろ、普通。
「で? もちろん説明してくれるんだよな」
「質問するときは、ちゃんと主語を使って聞きましょー」
 普段から先輩と主語抜きの会話を繰り広げている人間が、教え子を諭す先生のような言葉遣いで何か言っている。
「お前なぁっ!」
「とまぁ、冗談はこのぐらいにして」
 爆発しかけた俺を制し、それでも口元は含み笑いを残したまま、藤はため息を一つついた。
 ため息をつきたいのはこっちだ。
「半分ぐらいはタカくんのせいなんだよ? センパイをデートに誘ったのって」
 まだおちょくる気かと訝しげに睨み付けるが、どうやら今度は本気らしい。きっさまで浮かんでいた猫口がきゅっと結ばれ、まっすぐに俺を見つめてくる。
「どういうことだよ?」
「なんていうか、この身体になったときからね? もー前にもまして夕香センパイが可愛くて可愛くて。で、気が付いたらデートに誘っていたの」
 浅ッ! 理由が浅い!
「意味がわからん。なんで俺のせいだよ!」
「つまり、心が身体に影響されちゃったってことだね。タカくんってば、センパイが好きなんでしょ?」
 人差し指など立てて講釈を垂れるが、それで納得できるはずがない。心が身体に影響……って言われて思い当たる節がないでもないが、とても信じられなかった。
「ふっ、顔真っ赤」
「!」
 頭の中では冷静でいられても、表情までは隠しきれない。誰にも喋ったことのない想いを図星されて無表情でいられるほど、俺はドライじゃないんだ。
「でも後になってから、いくらなんでもタカくんに迷惑かなって思って、それでなごやんも誘っておいたってわけ。あの子メンタル弱いから、ちょっとからかえばすぐセンパイに泣きつくんじゃないかなって思ってさ。あと、センパイはセンパイでなごやんの話聞いたらお得意の勘違いをして、デートをただの遊びに行くこととして考える。違う?」
 まるで一部始終を見ていたかのような策略っぷりだ。なるほど藤のこんな面を知っていれば、しつこく裏で糸を引いているんじゃないかって疑いたくなる気持ちもわかる。
「信じる信じないは好きにしていいけど、明日になればタカくんもわかるんじゃないかな。きっと」
「?」
 わかる? 何が?
「ところで、さ」
 浮かんだ疑問を形にする前に、いつもの能天気な雰囲気に戻った藤が口を開く。
 というか、にじり寄ってきた。
 ベッドの上にいる女と、それににじり寄る男。この構図が傍目にどんな想像をもたらすのかは、考えるまでもない。
 四ノ宮ファミリーは今日も帰りが遅いため、家にはいまここにいる二人しかいないが、こういうときに限って親は早く帰って来るのがいわゆるお約束だ。ただの同級生では済まされない行動なり会話なりを見聞きされた場合、もはや取り返しのつかない誤解を生む可能性だってある。
 どこの誰とのお約束なのかは知らないが、そんな懸念が浮かび上がった。
「実は、少し気になることがあって」
 藤はそう言うと、呼吸の音が聞こえるほど顔を近寄らせ、髪に触れた。
 まるで慈しむような手つきで掬い上げ、梳かれる。
「うーん。やっぱりね」
「な、何が?」
「少し髪が痛んでいる。トリートメントはしている?」
「は?」
「手入れは充分にしたほうがいいね。明日はデートなんだから」
 呆れたような言い方でベッドの下に手を突っ込むと、腕を後ろに引いた。
 どうやら土台は抽斗になっていたらしく、その中には服やら日用雑貨やらがキチンとしまわれている。ぜんぜん見当たらないと思ったら、こんなところにしまっていたのか。
 いままで気付かなかった俺も俺だがな。
「ほら行こ」
 抽斗の中からタオルや小さなボトルを持ち出すと、俺の手を引き、部屋から出て行く。
 そのとき、もしお約束が発生した場合、確実に言い逃れ不可能な場所がふと脳裏をよぎった。

 で、悪い予感というのは、だいたい当たるものらしい。
 どういうわけか、俺はいま藤と一緒に風呂場にいる。
 さらにどうしてか、タオルを身体に巻きつけた状態で髪を洗われている始末だった。というかこういった場合、目隠しなりなんなりするのが普通だと思うのだが、藤はそういったことをちっとも強制してこなかった。
 俺自身も「女としての自分」に違和感が薄れているためか、照れや戸惑いといった感情があまりないのだが、正直、この状態はマズイと思う。そのうち自分が男だったことさえ忘れてしまいそうで、かなり怖かった。
「もー、下を向かないでよ。逆毛になるからダーメ」
 能天気なオカマ口調で、俺≠フ手がわしわしと髪を洗う。
 藤はどうなのだろう。見た感じ以前となんの変わりもないが、やはり俺のように、だんだん感覚が男っぽくなっていっているんだろうか。
「あ、あのさ」
「んー?」
 ぐいっと、アゴを持ち上げられる。知らず、また下を向いていたようだ。
「お前、平気なの?」
「平気って?」
「いや、男になってからさ、いろいろ大変じゃないのか?」
「……んー」
 頭のツボを押す力が、ピタリとやんだ。
「本音言うと、ちょっと怖いかな。だんだん、男の子でいることが当たり前に思えてきちゃって……このままだと、どうなっちゃうのかなって考えると、さ」
 やはり、藤も同じ悩みを抱えていたらしい。いつもみたいにあっけらかんと笑いながらではなく、しんみりとした静かな口調が、余計に事態の深刻さを物語っているようだった。
「でもね、そんな不安はすぐ吹き飛ばせる。だから、あたしはまだまだ大丈夫」
 声のトーンが、まるで電気を灯したように、パッと明るくなる。嘘や強がりでなく、本当にそう思っているのだとわかった。
「強いな、お前は」
「ふふん、恋する乙女は無敵。ってこと」
「……はん?」
 恋する乙女?
「キョウスケさんを想えば、あたしは安心できる。自分が四ノ宮藤だって、女の子なんだってこと、絶対に忘れない。きゃはー、言っちゃった言っちゃったー♪」
 男ボイスで黄色い声を出されても、突っ込むことができない。
 それだけ、藤の言ったことは衝撃的だった。
 この女に好きな男がいるのも驚きだったが、問題はその男を想えば、自分は何者かはっきりわかるという台詞だ。
 俺は夕香先輩が好きだ。けれどそれを考えていても不安は決して消えることはなく、藤の言うように吹き飛ぶことがない。
 藤が特殊なんだと思うこともできる。みんながみんな、好きな奴を想えば安心できるとは限らない。だが、それでも焦燥感を覚えずにはいられなかった。
 もしかして俺は、先輩に本気で恋していないのか? そんな思いに駆られ……。
「どぅあっつぅぅ!」
 突然、熱湯が頭からかけられた。
 椅子から滑り落ち、タイル張りの床に尻をしたたか打ちつけてしまう。
「い、いたた……。いきなり何すんだ!」
「人がせっかく秘密の恋心を打ち明けているのに、暗い顔しているほうが悪い!」
 シャワーを右手に握った藤が、胸を張りながら理不尽なことを言う。
 人がシリアスに落ち込んでいるってのに、なんつー女だ。
「それに、なんだかわかんないけどタカくんにはいまの気分を引きずっててもらっちゃ困るの。明日はデートなんだよ?」
「……なんか、ずいぶん気合入ってるな」
「あったりまえじゃない」
 激しい雨音がまたしても浴室に響く。
「熱、あつ、あっついってぇの!」 
「せっかく会うんだしさ、どよーんとした藤ちゃんなんか見せたくないじゃない? 中身はまぁ違うけど、それでも外見はあくまで藤ちゃんなんだからさ」
「あ、会うって、誰にだよ。ってか、熱いっ! 温度高すぎ!」
「えー、ぬるいくらいだよ? ほらほら」
 容赦なくシャワーを浴びせかけられる。
 俺、なんでいきなりイジメられているん?
「それと、キョウスケさんのことは夕香センパイには絶対に秘密。いい?」
「なんで。いやわかった、わかったからシャワー、やっ、らめぇぇぇ!」
 女の嬌声が風呂場に響く。それが思いの外いやらしく感じてしまい、少し落ち込んだ。
「はー、はー……一つ聞かせろ」
「ん?」
「その、キョウスケとは、もう付き合ってたりするのか?」
 もしそうだとしたら、おぞましいことだが、俺は「カノジョ」の藤を演じなければならない状況に立たされることもありうるわけで。
 自分の恋愛すら宙ぶらりんの無軌道状態なのに、何が悲しくて他人と恋人同士にならなくてはいけないのだ。しかも女役って。
「残念だけど、片思い。キョウスケさん、あたしじゃない人にゾッコンだし」
「望み薄っ!」
「あはは、ゼロじゃないなら、突撃あるのみっ。あと、もしタカくんが余計なお節介しようとか思っているなら、いままでのこと全部ばらした上に、あることないこと、むしろないこと九割で学校中の人に言いふらすからね」
「しねーよ」
 まったくタチが悪い。
 こいつだけは敵に回したくないと心の中で戦慄する俺をよそに、藤は気を取り直すかのように鼻歌交じりにぬるめのシャワーで髪を洗い続けた。
 それにしても、こいつがまさか俺と同じく片思い中だったとは。そう思うと不思議なもので、ほんの少しだけ同情というか親近感が芽生えてくる。
 まぁ、あくまでも、ほんの少しだけだが。

「奇跡だ……」
 何事もなく髪の手入れが終わり、俺は部屋まで戻るとようやく一息ついた。
 恐れていた家族の帰宅や、夕香先輩の突然の訪問といったトラブルもなく、藤もまた、あの片思い発言の他には特に何をするでもなく、笑顔で帰路に着いていった。
 窓から通学路を見下ろすと、長く伸びた影を追う藤が見えた。その両手には、裁縫用具と作りかけだったガイド服の入った紙袋が握られている。
 俺も不器用ではないが、さすがに残り数日で二着のガイド服を仕上げられるほどの腕前はない。そのことを察したのか、藤はトリートメントが終わったあと明日の予定を大雑把に伝えると、残りの作業は全部自分がやるからと言い、服作りのための必需品を自分の部屋から持っていったのだった。
 ノリだけで生きているような女だからということで、いままであまり気に止めていなかったが、藤もいろいろと陰で苦労しているのかもしれない。それでも、相変わらずお気楽な調子のままで笑顔を振りまくのだから、和弥じゃないが少しだけ見直したくなった。
「ったく。しゃあねぇな」
 誰に向けてでもなく、ため息混じりに呟く。
 ここまでお膳立てされては、もはや後には引けない。俺は喫茶店に並べるお菓子らを頭の中に思い描き、レシピを考えていった。
 正直なところ、自分だけの密やかな楽しみだったお菓子作りを、他人に振舞ってやることにまだ抵抗感はある。だが藤の頑張りの片鱗を見てしまったからか、俺の胸のうちにも、燃え上がるものがふつふつと沸いてきた。
 やるからには、大成功を目指す。
 ヤケが入った気分で、俺はそんなことを誓ったのだった。

        *        *        *

 土曜の駅前通りは当然のように人でごった返し、特にアーケード街の入り口は、さっきから他人の右折を許さない人垣を作っている。
 そんな雑踏から一歩引いた場所で、俺は待ち合わせの店先に背中を預け、携帯のデジタル表示を見ていた。
 並んだ四つの数字は、約束していた時間をとうに過ぎていることを知らせている。だというのに、部活メンバーはいまだに姿を現さない。
「はぁ」
 ため息を吐き出す作業にもいい加減飽き、ショーガラスに後頭部を預ける。街並みを左右対称に映すガラスの世界には、必ず付けることと厳命されたヘアピンとリップを塗った藤の顔が、どこか憂鬱そうな顔を見せていた。
「これが、俺か……」
 その気はないのに、指が前髪をいじる。
 白いブラウスに黒のスカートという極めてシンプルな格好だが、本人の素材がいいのか、さっきからやたらと道行く人の目線を集めていた。
 制服のときから同じことは感じていたが、今回はより顕著にあからさまでぶしつけな視線が投げつけられているのがわかる。実際、たまったものではない。女としての生活にもそれなりに慣れてきたとはいえ、これだけはどうにも慣れそうになかった。
 というか、慣れる前にさっさと男に戻りたいものだ。
「にしても、遅い」
 待ち合わせた時間からすでに十五分も経っている。
 藤はともかく、夕香先輩までもが遅れているのはどういうわけだろう。先輩は変な人だが真面目ではあるのだし、五分前ぐらいには到着していそうなものだと思っていたのだが。
 何かトラブルでも、と不安がもたげるが、行き交う人波のせいか電波状況は最悪で、こちらから連絡を入れることは無理だった。
「ねぇキミ」
「はあ?」
 アンテナ表示のない携帯を睨みつけながらやきもきしていると、聞きなれない男の声がした。顔を上げると、いつの間に傍に寄ってきたのか、薄ら笑いを貼り付けた見知らぬ男が俺を見下ろしている。
「いまヒマ? ヒマならちょっと俺と遊びいかね?」
 その陳腐な台詞のおかげで、男の目的は大体わかった。
 鬱陶しく伸ばした金髪に、紫のサングラス。笑顔を作る唇の端には、銀のピアスが刺さっている。やたら光沢度の高い豹柄のワイシャツは胸元まで開き、首から提げたアクセサリーがちらちら輝いていた。
 チャラチャラという擬音がこれでもかというぐらいよく似合う、珍しい男だ。
「別に変なイミとかねーからさ。ちょっと俺、ツレにドタキャンされてヒマしてんのよ。ってか、キミもっしょ? 似たもの同士、仲良くしてみねぇ?」
 一方的に喋り、勝手に解釈される。ずいぶんと強引というか、自己中だ。
 少しムカツクが、ヒマつぶしにナンパ男の生態観察も面白いかもしれない。めったに見られるものじゃないしな。
「あ、遊びにって、どこに行く気かな?」
 いままで見てきた記憶を総動員し、精一杯女らしく喋る。ついでに笑顔のおまけつきだ。男はそれを好感触と受け取ったのか、さらに距離を詰め寄せてきた。
 まったく、これで相手が実は男だってわかったら、どんな顔をするのかね。
「そうだなぁ、キミは行きたい場所とかある? 実は俺、車持ってんのよ」
「えーと。でも、あまり遅くなるといけないし」
 わざとらしく困った風を装いながら、甘えた声を出す。すると男は、あたかもたったいま思い出したような声を上げ、手を打った。
「あー、そういえば今日は、公園の方でイベントあるぜ? 行ってみねぇ? すぐ近くだよ」
「でも、今日は約束してて」
「だーからドタキャンされたんしょ? あ、それよりお昼まだ? なんならオゴるぜ」
 俺の一挙一動に目を配り、男はとにかく会話を絶やそうとしなかった。
 慣れているのか、慌てる素振りもなく常に最初の笑顔を崩していない。それでいて、じりじりと間隔を詰めてきている。
「ごめんなさい、やっぱり、ここで友達待っています」
「じゃあ、その子と一緒にってのは、どう?」
 言葉を噛み締めるようにゆっくりとした口調で、男はサングラスを外し、流し目に俺を見た。
 喫茶店の壁に手をついて、密着する直前の距離まで詰め寄ってくる。
「あ、あのぉ?」
「別に変なことしようってわけじゃないんだからさ。ちょっと食事しながら、お喋りするだけだぜ」
 相変わらず口元は笑んだままで、それなのに目が少しも笑っていない。どうやらマズイ人間を引っ掛けてしまったようだ。
「ほら、いいだろ行こうぜ」
 とうとう腕が握られ、強引に引っ張られる。
 藤の身体もこんなところばかり普通なようで、とても力任せには振り払えそうになかった。
「は、離せよ。ってか、しつっこい!」
「またまた、フリなんてしちゃって。この俺が誘っているんだぜ?」
 なんというかもう、生理的にキモイ。女言葉を喋る男の姿は何度も見たが、上には上がいたわけだ。
「待ちたまえっ」
 未知の恐怖にひたすら嫌悪感を抱いていると、ふいに、男の背後から凛とした声が響く。
「あぁん?」
 男は、狩りの時間を邪魔されたような不機嫌面を隠そうともせずに、眉間にしわを寄せながら振り向いた。だが次の瞬間、それはきれいさっぱり取り払われることになる。
「引き際を知らぬ者は、その先に待ち構える絶壁に突っ込み、必ずやその身を滅ぼすであろう。人それを、自爆という」
「んな、なんだ、お前はっ」
 ナンパ男が語気を荒げ、謎の御託を垂れる人物を睨みつけた。だが「彼女」はまったく動じず、漆黒の外套を見せ付けるように大きく翻すと、
「キミに名乗る名はない!」
 象牙色の仮面を太陽光に輝かせ、ない胸を反らし、きっぱりとそう言い放った。
「ゆ、夕香先輩!」
「は? キミの、知り合い? ……あ、あはははははは、そーいや俺、急用が」
 動揺していると一発で理解できる取り乱し方で引きつった笑顔を浮かべると、ナンパ男はそそくさと俺の視界から消えていく。
 目の前に立つ男が消え、代わりに目にしたのは、背景と化した人垣の十割の視線を独り占めにした、ファントムスタイルの夕香先輩だった。
「や、藤くん」
 男のことなど初めから眼中になかったかのように、軽やかに右手を挙げる。街中で見ると、その黒づくめのスタイルは際立って怪しく映った。よくここまで補導されずに来れたものだ。
「な、なんつー格好してんですかっ。脱いでくださいっ」
「おや。ピンチを救ったナイトに対して、ずいぶんな言い草じゃないか」
 ナイトとは程遠い格好をして、ギャラリーの視線やら携帯のカメラやらを独り占めする怪人に、良識を問われてしまった。
「そもそもどうしてキミは、いつまでもこんなところにいるんだい」
「え、だ、だって待ち合わせはここでしょう?」
「うん。この店だが」
 そこまで聞いた瞬間、ゾワッとしたものが背中を駆け抜ける。
 慌ててショーガラスを振り返ると、いままで鏡面世界しか見ていなかったガラスの向こう側が、今度ははっきりと見えてきた。
 奥のテーブル席に、見覚えのありすぎる二人の男が座っている。
 考えるまでもない。俺の姿をした藤と、そいつから微妙な距離をとった席に座る和弥だ。
「い、いつからあそこに」
「キミを除いた全員が、集合時間の五分前にあの場所にいた。もちろん、私もだ」
 俺がここに着いたのは十一時ちょうど。つまりは俺が待ちぼうけを食らって過ごしていた間、夕香先輩達はずっとあの席にいたわけだ。
 っていうか待ち合わせ場所って、外じゃなくて中かい!
「こ、声をかけて下さいよっ」
「そうしようと思ったのだが、人待ち顔をする藤くんの横顔がとても優美だったのでね。フィルム一本二十四枚全てをキミのために使ったよ」
 そういって、マントの内側からネガが巻き戻されたフィルムを取り出す。
「フィルムを買いに席を立ったはいいが、キミが絶体絶命にいるのを見かけてね。つい助けてしまった。……実は、余計なことだったかな」
「い、いえ。それは、その」
「大して感謝もしていないみたいだしね。いや、別に感謝されたくて助けたわけではないが、それにしても口を開いて一番初めの台詞が、『なんて格好をしているんだ』はないんじゃないかな?」
 確かに、その服装はどうあれ、助けてくれたのは事実なのだから、まずはお礼を言うべきだった。夕香先輩があのとき現れてくれなければどうなっていたか、想像もしたくない。
「……あ、ありがとうございました」
「初めからそう言ってくれれば、私も素直に喜べたのだがね。……まあいい。タイミングは外しているものの、気持ちは伝わった」
 あるかなしかの微笑みを浮かべながら、夕香先輩は俺に背中を向けると、背後の写メ子集団に立ち向かっていった。
「すぐ戻る。店で待っていてくれ」
 おそらくは宣言通り、近くのコンビニかどこかでフィルムを買ってくるのだろう。あの格好のままで。
「あー……」
 いいや、もう。本人が気にしないってんなら、俺もそうしよう。
 あの奇妙な格好にいちいち反応していたんじゃ、こっちの神経が持たない。なにより、先輩があーゆー人だっていうのは、初めて会ったときから知っていたじゃないか。
 セールストークにノせるような気分で、無理矢理に自分を騙していく。
 まあ、それでもやっぱり好きなんだけど。
 というか、なんかもう放っておけないのかもしれない。
 そんな自己分析を悶々としながら、俺は店のドアに取り付けられた来客鈴を静かに鳴らしたのだった。


「あ、おいしー♪」
 浮かれて弾んだ調子の声が、耳元で響く。
 ハッと顔を上げると、テーブルを挟んだ向かい側の席では、和弥と藤が生ぬるい笑顔を浮かべて俺を見ていた。
 二人の前にはコーヒーしかない。かたや、俺の前にはシンプルなイチゴのショートケーキが一皿。ダメ押しとばかりに、自分の右手にはフォークが握られていて、さらに口の中では、ふんわりとしたクリームの甘味が広がっていた。
 どうやら、いまの台詞は、この口から出たもので間違いなさそうだ。
「なんだよ藤、ケーキ好きなのか?」
 ニヤニヤしながら、俺の姿をした藤が尋ねる。
 その顔を見ていると、そうだと素直に答えるのが、なんとなくシャクに障った。
「す、好きで、悪いか」
 開き直ってみても、相手からニヤニヤ顔は消えない。
「べっつにー?」
「……ふんっ」
 顔を逸らし、ハーブティーを口に含む。ふわっとした香りが、照れくささやら自己嫌悪やらで高揚した頭に染み渡り、次第に落ち着いた気分を取り戻していった。
 この店はケーキだけでなく紅茶も一級品のようだ。
 まったく、素晴らしい。前からこの店に興味はあったが、評判通りの味わい深さで文句の付け所がない。
 店の雰囲気が女性向けだったせいか、どうにも一人では入りづらく、いままで足踏みをしていたのだが、いまの俺は四ノ宮藤であり、つまりは女だ。ということは、可愛らしいケーキを笑顔で迎えても、それを嬉しそうに食べても、なんの不自然もないわけで。
 そんな風に油断していたせいか、いまの俺が本当は女ではないと唯一知っている人間の前で、『おいしー♪』などと漏らしてしまった。
「可愛くていいと思います。自分は」
「むぐっ」
 和弥のダメ押しに、鎮まりかけた気分はあっさりと覆される。事情を知らないとはいえ、その台詞は完全に逆効果だった。
「ま、遠慮なく食べてくれって。ここは俺がオゴるしさ」
 ずいぶん気前の良いことを言っているが、使われるのはつまり俺の金である。
 とはいえもちろんこのせっかくのチャンスに、ショートケーキの一口だけで終わる気はさらさらない。幸い本人の了承も得たことだし、カロリーとかそのあたりにも配慮しないことに決めた。
 とはいえ、メンツがこの二人では、せっかくの一級ケーキも味が落ちてしまう。夕香先輩が一緒にいれば、また違ってくるのだろうが、我等が部長はフィルムを買いに行ったきり一向に戻ってくる気配がなかった。
「そろそろ、帰ってきてもいい頃なんだけど……」
「ん? 夕香センパイのことか?」
 無言でアゴを引くと、藤もこれみよがしに腕を組み、いかにも考えていますという風なポーズを取った。
「うーん。確かに、ちょっと遅いかも。フィルムなんて、コンビ二で簡単に買える物だしなぁ」
 誰に言うでもなくそんなことを呟きつつ、携帯をいじり始める。
 受話口に耳をそばだてると、しばらくして出てきたのは、電波が届かないというお定まりのメッセージを悪びれずに言う、冷たい女の声だった。
 ちょっと夕香先輩の声と似ていたな、とか思うあたり、もう苦笑しか出てこない。
「ダメだこりゃ。ちょっと探してくる。二人はここに残ってて」
 一方的にそう言うと、相手の了解を取る気などさらさらないといわんばかりに、藤はさっと席を立ち上がると一度も振り返ることなく、店を出て行った。
「……行っちゃいましたね」
「そうだな」
 残された俺と和弥は互いの視線を合わせると、同じような愛想笑いを浮かべた。気まずいというわけではないが、いきなり二人きりにされてしまい、なんとなく会話がしにくくなった感じだ。
 呼び水でもあればと店内を見回してみるが、特にめぼしい話題は転がっていなかった。
「きょ、今日はずいぶん人が多いですね」
「え、あ、ああ」
 窓の外に目を向けると、いまだにアーケード街の入り口は人で溢れかえっている。
「なんか、広場の方でイベントやってるっぽいから……」
 さっきのナンパ男が、確かそんなことを言っていた。
 できれば蒸し返したくなどない記憶だが、このままなんとなく居心地の悪い沈黙が続くよりはずっとマシだ。
「へー、何をやってるんですか」
「さあ? 大道芸でもやってたりしてな……くぅっ」
 取り留めのない会話をしながら、質素ながらも完成された甘さをもつショートケーキを再び口に運ぶ。
 イチゴのわずかな酸味と甘味とがほどよい調和で舌の上に広がり、喜びに打ち震えた唸り声が自然と漏れた。
 糖分のチカラは偉大である。
「好きなんですね。ケーキ」
「うん」
 さっきと違い、素直に頷く。和弥にとって、あくまでいまの俺は四ノ宮藤だ。
 送られてくる生温かい視線も、少しこそばゆい感じはするものの、大して気に障るほどではなかった。
「なんか、イメージと違います」
「そう、か?」
 女がケーキを喜んで食べる姿のどこがおかしいのか。
 和弥にとって俺と藤は尊敬の対象であり、性差など関係なしに男の中の男なんだそうだが、勝手に幻想を抱いて勝手に幻滅されても困る。
「オトコらしくない、とか?」
「いえ。言ったじゃないですか、可愛くていいと思うって」
 それはそれで複雑なわけだが。
 しかしよくもまあ、恥ずかしげもなく可愛いとか言えるものだ。
「和弥ってさ、実は結構、女タラシ?」
「な、なんですかいきなり」
 真っ赤になって目を丸くする。
 それが図星を指されたからなのか、それとも怒りによるものなのかまでは、判別がつかなかった。
「いくら先輩でも、言っていいことと悪いことがあります」
「いや、だって、会ってから間もない女に可愛いとか言うし……」
「それだけのことで、自分が軽い男だと見られるのは、非常に心外であります!」
 バカでかい和弥の叫び声で、それまで穏やかな喧騒に包まれていた店内が一瞬にして静まり返る。
 からかい半分のつもりが、思わぬ地雷を踏んでしまったらしい。そう気付いたときには、もう手遅れだった。
「先輩が可愛いと思ったから、相手が先輩だからこんなことが言えるのです! なのに先輩は、自分の気持ちをそんな軽薄なものと一緒にするのでありますか!」
 聞きようによっては告白されているとも思わせる台詞で、店中の人間の視線を独り占めにする。痴話ゲンカならよそでやってくれとでも言いたげな目だった。
 なんでそんなに必死になっているんだと問いたくなる激しい剣幕に、俺は相手をなだめることも忘れ、ヒステリックに口から泡を飛ばす和弥をただただ唖然としながら見守っていた。
「待ちたまえ」
 まるで暴風雨のような勢いでまくしたてる和弥とは対照的に、本日二度目になる、凛然とした静かな声がどこからかそよいだ。
「だ、誰でありますかっ」
「夕香先……ぱい?」
 このさい黒マントの怪人でもいいやと、助けを求め振り返る。
 果たしてそこにいたのは怪人ではなく、カーキ色のタートルネックに黒のロングスカートという、年頃の少女にしては少しやぼったい感じがするものの、極めて普通の服を身にまとった夕香先輩だった。
 露出の少ない落ち着いた色合いを出す服装は、スレンダーな体型の先輩によく似合っている。
「一人に敬愛を抱くあまり周囲を疎かにしないことだ、和弥くん。キミはさっきも注意されたばかりだろう。少し、落ち着きがなさすぎる」
「それは、でも…………ご、ごめんなさい」
 ヒートアップしていた和弥の勢いが、その一言で見る見るうちに衰えしぼんでいく。どうやら俺が来る前にも、何か揉め事が起こっていたらしい。誠実でひたむきなのは結構だが、いささか情緒不安定のきらいがあるようだ。
「先輩。ふ……タカくんは一緒じゃないんですか?」
「うん? いや、会わなかった」
 とすると、どこかですれ違ったのか。とことん間が悪い。
「まぁそのうち戻ってくる。そんなことより、これを見てくれ」
 俺≠フ所在をそんなことの一言で切り捨て、先輩はショルダーバッグの中から有名カメラ店のロゴが入った袋を取り出し、中身をテーブルの上に広げた。
「もう現像してきたんですか?」
「ああ、だがすべて納得のいかない出来だ」
 声に不機嫌なものを含ませて、柳眉を逆立てる。
 写真はどれもが、空を見上げたり髪を気にしたりしている藤を、窓ガラス越しに写した物だった。
 片隅に印字された日付は今日。つまりこれは、店先で先輩達を待っていたさっきまでの俺というわけだ。
 ……なんすかこの羞恥プレイ。
「このときのキミはもっとこう、愛しさと切なさと、他にもウブな期待や不安などが入り混じった、なんともいえない素晴らしい表情をしていた。だが私が撮った写真はこのザマさ」
 そうはいっても、見る限り手ブレやピンボケなどという、一目で失敗だとわかるような写真は一枚もなく、どれも上手い具合に被写体をメインに据えている。にもかかわらず、本人にとっては及第点ではないらしい。
「この原因はなんだと思う? それは私があの衣装を身にまとい、マスクをつけていたことが理由だ」
 質問にみせかけた自問自答をすると、メガネのブリッジを指で押し上げる。
 世の中にはコンタクトレンズという物もあるのだが、どうやら体質に合わないようで、あの衣装のとき先輩はずっと裸眼でいるのだそうだ。
「それじゃあ、着替えたのは」
「そう。この姿は、より良い撮影を可能にするための、苦肉の策なのさ」
 決意の表れとばかりに、グッと拳を握り締める。
 意気込みは充分すぎるほど伝わったが、それなら最初から普通の格好をしてきてくれれば、こっちも余計な心労を抱くことなかったろうに。
「近くに父がいてよかったよ。うまく衣装を預けられた」
「え?」
「いや、それよりも」
 そこで一旦言葉を区切り、きょろきょろと店内を見回してから、
「鷹広くんはどこへ行ったのかな?」
 そんなこと、となおざりにしていた男の所在について、やっと尋ねてくれたのだった。


 俺達は店を出ると、ようやく人のまばらになったアーケード街を抜けて広場へとやってきた。
 どうしてこんなところに来たのかというと、始まりは夕香先輩の携帯に届いた一通のメールからだった。
『これは……鷹広君から?』
 すれ違いになったことを聞き、このまま喫茶店で帰りを待とうとした相手からのメールに驚いているのか、先輩は声に意外なものを含ませながら、そう言って俺達にも携帯を見せてくれた。
 公園にいます。そのたった六文字しかないメールには、俺が一度も使った覚えのない、喜びを表現する絵文字やら顔文字やらがぎっしりと打たれていた。
 結局その呼び出しに応じる形で、俺達はここまでやってきたわけなのだが……。
「……」
 先輩はさっきから何か考え事をしているのか、難しい顔つきをしていた。
 付き合いは短いとはいえ、あんな俺のキャラに似合わないメールが送られてくれば、不審に思うのも当然だろう。
「いやぁ、賑やかですね」
 その一方で、入れ替わってからの俺しか知らない和弥は、あの浮かれメールにもなんら不自然を感じていないようでノンキに辺りを眺めている。
 芝生に沿ったレンガ敷きの大路には、まるで縁日のような顔ぶれがずらりと並んでいた。たこ焼きにヤキソバといったお馴染みの屋台をはじめとして、なぜかガレージセールや献血までもが行われている。
 こんな場所で、藤はいったい何をやっているのか。嫌な予感は膨らむばかりだ。
 しばらく三人で歩いていると、広場の中央にアーケード街で見かけた覚えのある顔ぶれが、今度は円を成して通行の妨害をしていた。
 その中心部からは、バラエティなどでもたまに耳にする荘厳さの漂う曲が流れている。
「ふむ、まずまず好評か。ありがたいことだね」
「先輩?」
 まるで中央で何が行われているのか知っているような口ぶりで、夕香先輩は人だかりを満足そうに眺めていた。
 心なしか表情にもうっすらと笑みが戻り、どこか誇らしげにさえ見える。
「せっかくだ、少し見て行くかい?」
「えっ、い、いや、でも」
「鷹広くんなら、私と和弥くんで探しておく。遠慮せず、いつものように行きたまえ」
 どうやら中心部にいる人間が誰なのか、先輩は知っているらしい。さらに聞けば、その人物の気配を察するや否や、藤は尻尾を振る犬のように飛び掛るんだそうだ。
「…………」
 その行動を、俺にしろと?
「鷹広くんを見つけたら、またここに戻ってくる。では行こうか、和弥くん」
「え、いや、でも自分は藤先輩と」
「人手は多いほうがいい。すまないが、問答無用だ」
 恥を捨てるか、それとも正体をバラしてそんなこと出来ないと言うか、その二つを天秤にかけるヒマも与えず、先輩は和弥を引き連れて出店の並ぶ方へ向かっていった。
 人ごみの中に消えていく後ろ姿を見送りながら、どうしたものか考える。
 せっかく別行動になったのだし、このまま何も見ずに立ち去るという手もありだが、それは、あとになって話のツジツマ合わせに苦労するのが目に見えていた。
「おおーーっ」
 ふいに、人垣が大きな歓声と拍手を上げる。
 中には口笛まで吹き、シビレルだの憧れるだのと、バカみたいに騒ぐ声もあった。
「……ちょっと待て?」
 たったいま聞いた声を頭の中でリピートし、再生終了と同時に俺は人ごみへ特攻する。
 文句を言いたげな視線を背中に浴びながらも人と人との間をくぐり抜け、ようやく最前列に着いた俺がまず初めに見たものは、背の高い黒マントの怪人だった。
 身長からいって、先輩ではない。そもそも、たったいま別れたばっかりだ。
 先輩と違い、怪人はハーフマスクに加えて、悪魔祓い師のような鍔の丸い帽子を目深に被っていた。さらに言うなら、その右手にはおもちゃのような大きさのナイフが握られている。
「さあ、次はこの、なんの変哲もないナイフ。鋭く尖ったこの争いの象徴が、あっという間に平和の象徴へ早変わりだぁっ!」
 ギャラリーに取り囲まれたその中心部で、男はハツラツとした声と共に、マントを大きく翻らせた。
 真っ黒な布地が男を覆い、周囲の視界からその姿を消す。だがそれも一瞬のことで、再び衆目に現れた男の右手からは、ナイフが忽然と消えていた。
 マントの中にしまったのだろうと、そう思う隙もなく、ひらひらと目の前を季節はずれの桜が通り過ぎた。
 とっさに空を見上げると、いつの間にか現れた白いハトが、花びらを撒きながらギャラリーの上空を羽ばたいている。ハトはその場でしばらく旋回し、やがて当たり前のように、男の腕に戻っていった。
 再び大きな拍手が湧く。そして口笛と、先ほど聞いたバカ丸出しの歓声も。
「イヤッホー! キョウスケさん最高ー!」
 その声の主が、予想通りの人間だったためか、脱力感と頭痛とが一気にやってくる。
「藤ぃ……」
「ふはははははっ。紳士淑女の皆々様、ご声援どうもありがとう!」
 野郎の黄色い声にも余裕の笑顔で切り返し、男は手品を続行する。
 どうやら藤の知り合いというのは、このマジシャンらしき男で間違いなさそうだ。
 男の足元には青いビニールシートが広げられ、その上に置かれたラジカセからは、例の荘厳さを感じさせる曲がループ再生されている。
 ラジカセの横には、なぜかガラス細工の小物や怪しげな仮面などといった古めかしい調度品が並べられていた。目を凝らしてみれば、値札まで貼ってある。
 もしかしたら手品はただの客寄せで、本当は公園の入り口で見かけたガレージセールの仲間なのかもしれない。たしかに集客率はけっこうなものだが、客自体は品物から遠ざかっているように見える。これでは本末転倒だ。
「さあっ昼の部はこれで終了だ! 途中、娘の乱入もあったが楽しんでいただけたかな? さあ次のショーは午後四時からっ。ここにある品物を買ってくれたお客さんには、夕方の部でサービスするぜぇ? メルシィッ!」
 男はなぜかフランス語でそう言葉を締めくくると、怪人衣装一式を空に向かって投げ捨てた。
 マスクの下から現れた無精ひげを蓄える柔和な顔つきが、いたずらめいた笑みでギャラリーに愛嬌を振りまく。
「ん?」
 心臓が、急に、いきなりなんの脈絡もなく、早鐘を打ち始めた。
 全身が芯から火照り、きゅぅっと胸が締め付けられるような切ない気分になる。
 急いでいるわけでもないのに、なぜかそわそわして落ち着かない。
 なんなんだ、これは……。
「ぃよう、藤ちゃん!」
 どこか覚えのある気持ちに戸惑っていると、活発な男の声が降りかかってきた。反射的に顔を上げると、さっきの男が両手を広げ、キラリと白い歯を覗かせている。
「ヘイ、カマンッ!」
 まだギャラリーのハケきっていないその中心で手を打ち鳴らし、身体を反り返らせる。それはまるで、俺の胸に飛びついて来いとでもいうようなポーズだった。
「……マジか」
 先輩の話によると、藤はいつもあの男に忠犬の勢いで飛びついているらしい。実際、あの男の顔を見ていると、なぜだか幸せ気分に支配され、いますぐ胸元まではだけられたあの白いワイシャツに向かって飛び込みたい衝動に駆られた。
 だが足は一進一退を繰り返し、前にも後ろにも進まない。まるで、野郎に飛びつくのが許せない俺の意識と、飛びつきたい藤の意識とが交互にせめぎあっているような感じだった。
「うぅ……」
 俺は数メートル先でダンディズムな笑顔を振りまく男を前に、いよいよ屈しそうになる。よく見ればかっこいいかナーとまで思う始末だ。
「キョウスケさん!」
 一瞬、自分が発したかと勘違いしそうなほどピッタリのタイミングで出てきたその声は、聞きなれた男の――本来の自分の――声だった。
「お疲れ様ですっ、これ、差し入れですっ」
 顔を真っ赤にして、藤がたこ焼きを差し出す。
「ああん? なんだお前……ん、おいおい、こいつぁ駅前の「金だこ」じゃねぇか! くれんのか?」
「もちろん!」
「そうかそうか、ふははははは!」
 オッサンの態度がいきなり氷解し、豪快に笑いながら藤の頭を撫でた。藤も、それを嬉しそうな顔をして受け入れている。
 混乱のしすぎで、頭が真っ白になりそうだ。とりあえず、あんなキモイ自分の姿は知り合いには絶対に見せられないな。
「藤くん。いまここで鷹広くんの声が……」
 お約束が偶然だよコンチクショオ!
「み、見ちゃ駄目です! ってかお願い見ないでぇ!」
 甲高い声で叫び、夕香先輩の両目を手のひらで塞ぐ。手の脂がメガネのレンズについてしまうのは心苦しいが、オッサン相手に頬を染める俺の姿を見られてしまうのはもっと苦しい。というか、舌噛んで死ねる。藤の身体は道連れだ。
「な、何をっ」
「何も聞かないで、回れ右して、向こう行ってください。お願いします!」
「ぃよう我が娘アーンド藤ちゃん! 挨拶もなしにオジサン悲しいぜぇ?」
「わああああああっ!」
 いつのまにここまで接近してきたのか、例のオッサンが青ノリのついた歯を輝かせて目の前に立っていた。その隣には俺の姿をした藤もいる。
「夕香。紹介するぜぇ? こいつは、オレの大ファンだ! 野郎も虜にするパパのマジックって、正直どうよ!」
「ならば私も紹介しよう。そこの彼は私の後輩であり、写真部の一人だ。旧知の仲である藤くんのみでなく、赤の他人までも惹きつけた娘の手腕は、正直どう思うかな?」
「ふふん、引き分けって所か」
「うん、異存はない」
 いったいこの二人は何を張り合っているのだろう。
「ってか、パパ? ……娘?」
「おいおい藤ちゃん? どうしたよ」
「何をそんなに驚く? 知っているだろう」
 不思議な顔を二人から返される。
 改めて男をじっくりと見るが、二十代にしか思えなかった。それに、陽気で軽いノリの若作りオヤジと、物静かで大人びている夕香先輩とでは、どうあっても結びつきそうになかった。男の雰囲気はどちらかといえば藤に近い。
「父よ。どうも藤くんは調子が悪いらしい」
「夕香。父じゃなくてだな、もっとこうエレガントに、「パパ」。もしくは高貴な感じで「お父様」って呼んでくれって、いつも言ってんだろぉ? あ、藤ちゃんヘーキ? 熱ある? 健康だからって、油断しちゃあいけねぇぜ」
 冗談とも本気ともつかない台詞のあとで、急に真面目な声を出すところも、夕香先輩というよりは、やはり藤にそっくりだ。
 しかしそれでも、目元や顔立ちは、どことなく夕香先輩を思い出させる。
 先輩が男になって、常に裏表のない笑顔を絶やさないでいれば、こんな感じの顔になるのかもしれない。
「ははぁ、さては属性変わったな藤ちゃん。モジモジしちゃってぇ、このこの」
 まじまじと観察しているのを、都合のいいように考えたらしい。おちょくるような調子でそんな台詞を吐くと、先輩の父親は俺の頭を撫でてきた。
 ごつい手が髪に触れ、頭を撫でさする。
「ひぅっ!」
 ドキンッと、急に心臓が跳ね上がった。治まりかけていたはずの動悸が再び胸を苦しめる。
 ちょっ、おい、なん、で……?
 顔がこわばり、息をつくことさえ一苦労なのに、ふわふわと暖かくて、気持ちのいい感覚に迫られる。これ以上身を委ねていたら、どうにかなってしまいそうだ。
「あ、あの、その、手……」
「ふはっ、イイヨイイヨー、可愛いじゃん」
「うっ!」
 和弥に続いて、夕香先輩の親父にまで可愛い認定されてしまう。それが気つけになったのか、ドキドキと暴走していた心臓が嘘のように静まっていった。
 だが心はすでにボロボロだ。今日は朝からいろんなことがありすぎたせいか、本当に具合が悪くなってきた気もする。
「あ、アタシ、帰ります!」
「ふははは、照れちまったのかな? まあちょっと待ってくれって」
 父親はそういうと、工事現場の立入禁止ポーズのように手のひらを突き出し、くるりと手首を捻った。
「わ……」
 その手並みに、一瞬で目を奪われる。何も持っていなかったはずの手には、いつのまにか一輪の造花が握られていた。
 どうやらこの親父、娘と違い手先はとても器用らしい。が、このキザったらしい真似はどういうつもりだ。
「新しい萌えを身に付けた藤ちゃんに、心ばかりのお祝いさ」
「さよなら」
 足を止めた俺がバカだった。
「送っていこうか?」
 先輩の優しい言葉が身に染みる。が、いまは誰とも顔を合わせたくない。
 実を言うとキザ親父に造花を差し出され、また心臓がバクバクとなっている。たぶん耳まで真っ赤だ。
「い、いいです。一人で、大丈夫ですからっ」
 どいうにかそれだけ言うと、俺は逃げるようにその場から走り去る。
 去り際に、『やっぱり』と呟いた藤の声が聞こえた気がしたが、その意味を考える余裕はなかった。


 どこをどうやって帰ってきたのか、気がつけば俺は部屋のベッドで横になっていた。
 夕焼け色をした天井に、今日一日の顔ぶれが浮かんでは消えていく。
 ゼロ円スマイルのナンパ男……は、どうでもいい。一刻も早く忘れるべきだ。
 いやに必死になって、俺を可愛いと説き伏せる和弥。
 ベストショットにこだわる夕香先輩。
 エセ手品師に熱狂的な拍手喝采を送っていた藤。
 娘とは正反対の性格をした、精悍な先輩の父親。
 そんな奴に頭を撫でられて、なぜかドキドキしていた自分。
「はぁぁぁ〜」
 ため息をつくと逃げていくともっぱら噂の幸せ成分を全て吐き出す勢いで、深いため息をつく。
 入れ替わってからずっと気の休まらない日が続いている。それがお互い様ならまだしも、藤は俺とは逆にいまの状況を受け入れ、存分に楽しんでいるようだ。
 あいつだって好きな相手がいるはずなのに、どうしてあんなに余裕を持っていられるのか、不思議でならない。
「うん?」
 そこまで考え、スッと冷たい何かが背筋を走った。
 先輩の親父に会って舞い上がっていた藤。キョウスケという名前。頭を撫でられて無意識にドキドキしていた身体。最後に聞いた呟き。
『心が身体に影響されちゃったってことだね。タカくんってば、センパイが好きなんでしょ?』
『明日になればタカくんもわかるんじゃないかな。きっと』
「マジか」
 まさか、藤の好きなキョウスケ≠チてのは……。
 枕元から手探りで携帯を取り、藤にメールを打つ。その間にも、身の毛のよだつ相関図は着実に形作られていった。
 まさかまさかと思うほどに、そのまさかはどんどん可能性を強くしていく。
 数分後、送り返されたメールには、俺の頭をショートさせるのに充分なパワーを持った返事が綴られていた。


 夜が明けると、世界はぐるぐるのぐにゃぐにゃだった。頭がぐらぐらと沸騰し、思考力はまるでゼリーのようになっている。
 それなのに、よせばいいのに、またも携帯を開いてしまう。
《愛があれば年の差なんて》
 照れを表現した絵文字つきの短いメールが、熱をさらに引き上げる。
 環境の変化やら人間関係やらで頭を悩ませていた毎日に、トドメとばかりにこんなわけのわからん冗談のようなものを突きつけられたのだ。これで体調が崩れないはずがない。むしろよく風邪程度で済んだと思うべきだろう。
「おぉぅ〜」
 身体中がムッとした熱でコーティングされ、息苦しさのあまり意味のない唸り声を漏らす。目眩が絶え間なく続き、気分は荒海を渡るボートのようだった。
 パジャマが汗で湿り、じっとりとした感触が不愉快を募らせる。具体的に言うと、胸の辺りがかなり蒸れていた。
 取り外しができればいいのだが、あいにくとこの身体は正真正銘の女であり、そして平均を著しく凌駕したバストサイズをしている。
 入れ替わってから幾日か経つが、いままで敬遠し、出来るだけ見ないよう触らないようにと避けてきたこの無駄に重い脂肪の塊は、ここにきて最大の難敵として立ちはだかっていた。
「胸が……胸が迫る……うぉー……う?」
 胸元の蒸し暑さとの孤独な戦いを繰り広げていると、ふいにひんやりとした物が額に触れた。おぼつかない意識を無理矢理引き起こし、じわじわとまぶたを持ち上げる。
「気がついたかい?」
「せん、ぱい?」
 ついに幻覚が始まったらしい。せめてもの救いか、現れたのが先輩で良かった。
「親父さんだったら、立ち直れねぇ……」
 自嘲気味に呟きながら、昨日のことを思い出す。
 先輩の父親にドキドキしたアレは、おそらくこの藤の身体が、無意識に反応していたせいだ。文字通り、四ノ宮藤は身も心も、身体の芯から芯まで、キョウスケという一人の男にゾッコンらしい。
 ……ということは、俺の身体の藤にも似たようなことが起こったと、そう考えられる。
 なんだよ、俺も結局は、骨の髄まで先輩に惚れていたわけか。
「悩んで……損した」
「言っていることがよくわからないな。まだ、朦朧としているのかな?」
「はぇ?」
 煮えたぎっていたはずの頭をどうにか働かせ、少しずつ現実感を芽生えさせていく。定まった視界が、俺を心配そうな顔で見下ろす夕香先輩を捉えた。
「……先輩?」
「やあ」
 声をかければ、サワヤカとはいえない無機質っぽい声で、サワヤカな返事が返ってくる。
 夢や幻ではありえない、いつものやり取りだった。
「ど、どうして、ここに?」
「つれないことを言うね。幼馴染の看病をするのがそんなに変かい?」
 先輩の傍らにはトレイが置かれ、水の張った洗面器と濡れタオルが用意してある。水気を帯びたまっさらな布が、額に貼りついた髪をそっと拭った。
「で、でも……」
「言いたいことがあるのならあとで聞こう。いまはゆっくり休むといい」
 柔和な声でそう諭し、目を細める。
 一方で、その手は俺の胸元のボタンを一つ一つ丁寧に、かつ素早く外していた。
「いや、ちょっ、何しているんですか!」
「胸元が暑いのだろう? 汗を拭いてあげるよ」
「な、なんでそのこと」
「胸がどうとか言っていたからね。蒸し暑いのだろう? 私にはわからないけど、ねっ」
「ひゃうっ! あっ、そこっは……うひゃあ!」
 冷えたタオルを持った先輩の手が、俺の谷間に差し込まれる。熱のせいで、余計に敏感になっているのもいけなかった。
 その際に走った数々の感覚を詳しく言ってしまうとお酒を飲めない年齢未満はお断り的な領域に達してしまいかねないが、これだけは言わせて欲しい。
 憎しみを込めて胸をいじるの、やめてください。


──カシャッ──
 耳障りな音と同時に、白い光がまぶたの裏を突き刺す。
 白いというか、むしろ痛い。というか眩しい。
「っだよ……」
 いまいましい光を浴びたせいで、眠りから無理矢理引き剥がされる。
 気分はナナメ四十五度の右肩下がり。すこぶる目覚めの悪い朝だった。
 訂正。朝ではなかった。
 部屋の中は真っ暗で、窓の外には目の覚める光などとても放ちそうにない月がぽつんと浮かんでいる。
 その弱々しい光を遮る雲を目で追ううちに、じわじわと意識を閉ざす前の記憶が蘇ってきた。
 熱にうなされていたら先輩が来て……それで……。
 胸どころか全身をタオルで拭かれ、弱りきった身体で身悶えているうちに、眠ってしまったらしい。
 思い返していると、カァッと顔が熱くなってきた。せっかく熱も下がり始めたのに、また気分が悪くなりそうだ。
「ああ、起こしてしまったかな」
「ひゃっ」
 いきなりの声に、俺は思わず高い声をあげて上半身を跳ね起こす。
 枕元に夕香先輩がいた。
「い、いたんですか、先輩」
「ずっとね。私が病人を放っておくわけないだろう?」
 外の景色からいって、少なくとも四時間以上は眠っていたはずだ。もしかして、ずっと看病してくれていたのだろうか。
 ありがたいやら申し訳ないやらで言葉に詰まり、視線は知らずのうちに胸元へ下がっていく。
「あれ? パジャマ……?」
「ああ、キミの身体を拭いた後、新しい物に着替えさせておいた」
 その一言で記憶機能がさらに刺激され、全裸を見られてしまったことをも思い出す。
 女同士なのだし、そもそもこれは自分の身体ではないのだしと納得させようとしても、やはりバツが悪いことに変わりはない。
 しかし先輩はまったく気にしていないようだ。もしかしたら、こういった看病に慣れているのかもしれない。身体を拭く手つきにも、ためらいはほとんどなかった。
「ふふん、見事だ」
「はい? うわっ」
 言葉につられるようにして顔を上げると、耳障りな音と眩い光が再び襲い掛かってくる。
 太陽とはまた違う、痛いほどの白い光に顔をしかめていると、いつの間に現れたのか緑色のアメーバが視界の中をさまよい泳いでいた。
 俺はそれで、ようやく光の正体に気付いた。
「裸を見られてしまったという恥じらいと、同性ゆえに妥協できるかできないかの境目に頭を悩ませ恥じらう少女。最近のキミは、どうにもあざとい」
「あ、あざといって……」
「だが、それがいい」
 にやりと、月明かりの下で口を綺麗に曲げる。
 先輩の両手には、首から提げたカメラが構えられていた。さっきの音と光とアメーバは、それが原因だ。
「もしかして、さっきも撮りました?」
「月明かりに浮かぶ病床のキミがあまりにもセクシィだったのでね。あれをカメラにおさめずに、写真部部長は名乗れまい」
 そんなことを誇らしげに言われてしまい、どっと疲れが舞い込む。
 昨日のナンパ男のときといい、どうしてこの人は、俺に『ありがとう』の言葉を簡単に言わせてくれないのかな。
「それより、具合はどうだい?」
「もうほとんど治りかけていたんですけどね。さっきまでは」
 熱は出るわ頭は痛いわで、いつまた寝込んでもおかしくなかった。
 それでもやはり、こんな時間まで看病してくれたのだから感謝はしている。
「どれ」
 先輩は俺の額に手のひらを乗せると、ゆっくりとした調子で頷いた。
「うん、これなら心配はなさそうだ」
 火照った顔に、心地良い冷たさが拡散する。
 手の冷たい人間は心が暖かいとか言われている。体温で人の心が推し量れるわけないが、いまならその世迷い言を信じていい気がした。
「では、そろそろ失礼するよ。キミの両親も帰ってくる頃だ」
「あ、あの、先輩」
「うん?」
「その……ありがとう、ございます」
 改めて伝えるお礼の言葉は、なぜか照れくさく、最後の方など自分でもほとんど聞き取れないぐらいに小さくなっていた。
 それでも先輩にはちゃんと届いたのか、微かな笑顔で礼を返される。
「明日のプレゼントは、期待してもいいかな?」
「え?」
「それじゃあ、またね」
 砕氷船のごとくざくざくとゴミを掻き分けながら、去り際に手を軽く振ると、音も立てずに先輩は部屋のドアを閉じた。
 かたや俺は、しばらくその場から動けずに疑問符ばかりを浮かべている。
「プレゼント?」
 首を捻っても、回答なんぞ出てくるはずもない。
 しかしつい最近、この単語をどこかで聞いた覚えがあった。
 どうやら何かのお祝いがあるらしいことだけはわかるが、詳しいことまではやっぱりわからない。
「プレゼント、プレゼント、プレ…………ああっ!」
 同じ呟きを何度か繰り返し、ようやく思い出す。
 大事なことのはずなのに、いままで忘れていた。というか、そもそも知らなかったという方が正しい。
 確認のため、まるで昨夜の再現のように慌てて藤にメールを打つが、おそらく間違いないだろうという奇妙な自信があった。
 明日は、夕香先輩の誕生日だ。

        *        *        *

 奨励祭まで残り一週間を切れば、あちこちの教室からカナヅチやカンナの音が響き、せかせかと動き回る生徒達の姿もずいぶんと見かけるようになる。
 そんな中、俺の、というか藤のクラスでは、この世のものとは思えない喜び狂った悲鳴で満ち満ちていた。
「きゃーっ! 藤ってばかっわいいーーっ!」
「こっち! こっち向いてぇ! くるっとターン!」
 この公害レベルの黄色い声を注意する人間は誰もいない。我が校の教師は訓練された事なかれ主義者らしく、うるさくしていても奨励祭の準備のためだから、と実に寛容な対応をしてくれているのだ。
 おかげで、二年C組はいま現在、牢屋から解き放たれた囚人が充満する収容所のような熱気と興奮で包まれていた。壁に穴が掘ってあれば逃げられたのだが、そんな用意周到な真似をしているはずがない。
「これはこの私、大和が自信を持って送る最高の一着! 藤に比べればさすがにまだまだだけど、私だってダテにゲキ部で衣装係をしているわけじゃないのよ!」
 アドレナリンをヤバイぐらいに出しまくる少女の筆頭が、自分の作品をギラギラとした目で絶賛する。
 その傑作とやらを身に付ける俺は、両手でしっかと裾を握り締めたまま固まっていた。
「み、みみ、短すぎだろっ、こんな、こんなのぉ!」
 怒りやら恥ずかしさやらで、頭の中はいよいよ混乱していく。
 俺はいま、男なら絶対に味わう必要のない、未知の世界を体験していた。
 朱色をしたワンピースタイプのチャイナドレスは、くっきりと身体のラインを描いている。特に、普段の服ですら自己主張を忘れていない胸の膨らみは、その強調性がいっそう際立っていた。
 歩けば揺れ、屈めば見える。なんというか、いまにでも公然猥褻でとっつかまりそうな衣装だった。
「ふふっ、よく聞きなさい? 藤は普段から、そのナイスバディで普通の子より遥かに人目をひきつけている。そしてチャイナ服を着ることによって、このEカップはさらに強調された。この意味がわかるね?」
 大和はご機嫌な調子で、指を二本立てながら含みのある言い方をしている。
 つまるところ、客引きアイテムにされているわけだ。
「っていうか、ぶっちゃけ私の趣味。ビバ、ギリギリアウト! はい、復唱!」
「するかぁっ!」
 背後で何人かの女子が大和の台詞を復唱していたが、当然ながら無視する。
 そもそもアウトじゃ駄目だと、クラスの実行委員も言っていた。
 しかし彼の主張は通らず、特殊趣味を持つクラスの女子どもはいっそうミニチャイナドレスの製作に励み、ついに完成したのが、このマイクロミニスリットを持った、ノースリーブチャイナであった。
 ただし、全員が全員そんなセクハラ衣装ではない。
 店の外、つまりは廊下での呼び込み役を任された俺と、衣装係の他にそれを兼任した大和の、二着のみの特別仕様になっていた。
 ここまで嬉しくない特別扱いは初めてだ。
「マジ可愛いーっ、藤が照れるなんて反則だよっ」
「ほんと女の子っぽくなったよねー。男でもできたか、こんにゃろうっ」
 次々と放たれるお褒めの言葉が、俺の心にダメージとして蓄積される。
 前からなんとなく思っていたが、どうも俺は本当の藤より女らしいようだ。
 元がアレなのだからハードルは高くない。それはわかっている。だからといってショックが軽減されるわけでもなかった。
 曲がりなりにも男なのに、生来の女より女らしいとか言われるのはいかがなものか。褒められれば褒められるほど、なんだか悲しくなる。
「スタイルもいいし、何を食べたらそんなんなるのよー、くぉのわがままボディめがっ」
「うにぁぁぁぁぁッッッッ?!」
 チャイナ服によってはっきりと形の浮かび上がった胸が、羨望と憎しみをもって掴み掛かられた。
「……ッ、……ッ! ……ッ?」
 何をするんだと言ったつもりなのに、声帯が機能していない。先輩にされたときよりも乱暴な手つきが、下半身の力を奪っていく。
「ありゃ、腰抜かした?」
「ぺったんこ座り! 萌えぇ!」
 人の胸を揉んどいて、言うことはそれか。
「く、認めんっ、認めんぞぉっ!」
 泣いて逃げ出すことさえ忘れていると、それまで傍観していた実行委員の男がついに立ち上がった。
「ハレンチ極まりないっ! 大和っ、いま一度、ギリギリアウトとギリギリセーフの雌雄を決しようじゃないか!」
「オッケー? そうこなくちゃ」
 大和はなぜか嬉しそうに唇を吊り上げ、指先から怪光線でも放ちそうな形相で人差し指を突きつける実行委員の男と向かい合う。
「ほっほっほっ、なんだかんだいって、男なんてみんなエロオヤジなのよっ」
「見えそうで見えないっ。この言葉の重みを思い知るがいい!」
 かくして、第二次ギリギリ論が開戦されるのであった。
 もう勝手にしてくれと思う一方で、今度こそ実行委員の男の勝利を願う俺がいたことは、言うまでもないだろう。


「ってわけで、しばらく教室に帰りたくない」
「うーん、さすがヤマちゃん。あたしにはできないことを平気でやってくれるっ」
 俺の話をニヤニヤしながら聞いていた藤を横目に、がっかりするぐらい中身のない昼飯のパンにため息を詰め込む。
 ここのカレーパンはなんでこんなやたらに空きスペースが目立つのか。もっと詰め込めばいいのにと常々から思っているんだが、そこは大人の事情なりなんなりと複雑な理由が介在しているのだろう。とまあ、どうでもいいことで思考を話題から脱線させたところで、状況にはなんら影響はないわけで。
「あたしも見たかったなぁ、チャイナドレス着てモジモジするタカくん」
 藤は相変わらず、遠慮なく女言葉を使いニヤニヤ笑いを隠そうともしないでいる。
 俺達以外にこの校舎裏に人影はないわけだし、気を抜いているのだろう。まぁオカマ語を扱う「自分」を目の当たりにしてしまう俺自身の気分の悪さは、相当な物なのだが。
「そんなもん、元に戻ってから鏡で見ればいいだろ」
「あたし、その程度じゃ恥ずかしくなんともないし。だいたい、ヤマちゃん達は中身がタカくんだったから萌えたんだよ?」
 ついに本人の口からも、俺が女らしいなどと言われてしまう。
 だがそれも、もう終わりだ。
「わかってるよな。このあとどうするのか」
 俺が藤をこんな場所に連れてきたのは、教室で起こった出来事を本人に伝えてやるためではない。あくまでも、確認のためだ。
 今日で、例のカメラが修理から戻ってくる予定になっている。
 女としての生活の最後にまさかあんな辱めを受けるとは思わなかったが、そのおかげでひとつ学ばせてもらった。
 スカートの丈はロングかミニかなんて議題、一週間ほど前まではあくびをしながら聞いていたテーマだが、いまの俺ならはっきりとロングスカートを推せる。着る側にも見る側にも落ち着いた雰囲気を与えてくれるあの衣装を、どうしていままで推奨しなかったのか不思議でならなかった。アクティブさにこそ欠けるがその分、他の衣装にはない静かさが内包されているじゃないか。
 閑話休題。
「はーいはい、カメラねカメラ。ちゃんと引き取りにいくってば」
 藤は面倒くさそうな口調を隠そうともせずに頷き、まるで遊びに連れて行けと子供にせがまれた父親のような表情をしながらお茶のプルタブを開ける。
 そのかったるそうな態度を見ていると、まさか一刻も早く元に戻りたい俺とは逆の気持ちでいるのではと、そんな気がしてならなかった。
「んー、あのさぁ、タカくん」
 もう一度だけ念を押しておこうかと思った矢先に、藤はアルミ缶から唇を離し、少しだけ逡巡するような素振りを見せる。
「もうちょっと、このままでいない?」
 気軽に、それこそ明日の天気の話でもするかのように、たったいまよぎった不安がそのまま目の前に飛び出してきた。
「このまま……っていうのは?」
「入れ替わったままで、ってこと」
 言葉は鉛玉に変質し、音もなく耳を撃ち貫く。鉄骨の校舎から漏れていた喧騒はちっとも聞こえなくなり、その代わりに胸だか頭だかが、やかましい不快な音色を出していた。
「は、はは。何、言ってんだ?」
 ようやく、俺はそれだけ言葉にする。藤はニヤニヤと、まるで見下すようにこちらを見ていた。
「話、変わるけどさ。野球部を辞めたホントの理由、当ててあげようか?」
 その一言で、何を言いたいのか瞬時に悟る。
「脅す気か?」
 野球部だった俺は、相手チームの暴投により腕をケガし、それが理由で部を辞めた。
 少なくとも、表向きにはそうなっている。しかし身体が入れ替わったことで、藤は本当の理由に気付いてしまったようだ。
「実際にこの身体動かしているとさ、後遺症とかそんなものはぜんぜん感じないんだよね。退部理由はケガじゃなくて、別のところ。本人の気持ちにあった。どう? 当たりでしょ」
 そう。俺は二度と野球のできない身体になった、というわけではない。
 ケガをし骨を折ったのは紛れもない事実だが、それ自体は実は深刻な物でなかった。だが、リハビリを終えて意気揚々とマウンドに立った俺は、ボールを投げられたその瞬間、動けなくなったのだった。
 何度やっても迫るボールに足がすくみ、腕がしびれ、身体が動かなくなり、ほとんど治ったはずの腕が痛みを訴え出した。
 その原因を知るのに、時間はほとんど掛からなかった。
 問題だったのは、俺自身の気持ち――俺は、もう一度ケガをするのが怖くなったのである。
 臆病者と言われても仕方がない、弱虫な理由だ。しかし俺にとっては、そんな、他人から見ればくだらないと思えるような理由だけで充分だった。あの痛みをまた味わうくらいなら、いっそ野球から離れてしまえばいい。幼稚な考えが導き出したその結論に、是も非もなく従い――あっけなく、俺は野球部から逃げ出したのである。
「言いふらされたくないでしょ? 特に夕香センパイには、ね」
「お前……!」
「個人的にタカくんのことは嫌いじゃないけど、なんかムカツクし?」
 それは、お互い様だ。
「ってわけで、交換生活は奨励祭が始まるまで延長〜ってことで、どうかな? あんまり長い間この状態続くのも、アレだしね」
「……はぁ」
 呆れて言葉も出てこない。タチが悪いというか、そもそもムカツクとか言っている相手に、よくも自分の身体を預けておく気になれるものだ。
「あたしの身体でなんかする勇気、タカくんにあるわけないしー」
 ずいぶんな言われようだが、否定できる材料が見当たらないもの事実なわけで。
「俺の身体で、何する気だ?」
 ようやく、それだけを訊ねた。
「そーだなー。しばらくはお祭りの準備と、キョウスケさん詣でかなぁ♪」
 完全にいまの肉体が男であることを忘れ、藤は気色の悪いしなを作る。
 というか、それは自分の身体でやらなきゃ意味がないことではないのか。
「まぁ聞いてよ、キョウスケさんって男の子相手の方が自然体だからさぁ、会うたびに新鮮な魅力が見つかるのっ。きゃっはー♪」
 声を上ずらせて、ぽぽぽっと音が聞こえそうなほど頬を真っ赤に染める。そんな、女のときや男でも和弥レベルなら似合う仕草を、この俺がやっていいわけがない。トリハダが引っ込むほどのグロテスクなんぞなかなか拝める物じゃないが、できれば一生見たくなかった。
 ってか、誰にだって見せたくない。少し前にも同じことを思ったが、今回はあの時よりずっと切に願いたいものだ。
「あれ、藤じゃん。何してんの?」
「ひゃあああああああああああああああっ!」
「へぶぃっ!」
 反射的に、隣でクネクネする生き物を突き飛ばす。火事場の馬鹿力というか、そのつもりはなかったのにまるでハリボテか何かのように藤はイスから吹き飛び、顔から地面に突っ込んだ。
「んー? だれだれこの男」
「って、あれ? 大和?」
 お約束が偶然にも発動したらしいが、出てきたのは俺≠フ直接の知り合いではない大和だったことで少しだけ余裕を取り戻す。昼休みに入ってからも続けられた実行委員との舌戦はもう終わったのか、だいぶスッキリした顔つきをしていた。
「ハッハーン。カレシね?」
「え、まさか、違っ」
「もーマジに男がいやがったのかこの裏切り者ぉ!」
 興奮ぎみに、息継ぎなしで早口に怒鳴り立ててくる。いったい彼女の何がそうさせるのかというほどのすさまじい語勢に、ほんの少し気後れしてしまった。
「い、いや。コレはただの同じ部員で」
「それうちの制服だよねっ、どこのクラスどこで会ったのどっちからコクったのどこまでイッたのっ!」
 俺の言い訳など聞いちゃいない。どうして男がいると誤解されただけでここまで質問攻めにされなきゃならんのだ。
「カレシ? アッシー? メッシー? それともドレイドン?」
 日本語でおk。
 つーか、まかり間違ってこのまま藤と俺が公認の仲にでもなってしまったらと、そんな想像をするだけでムシズが走る。
「あーもうっ。ほら、ふ……タカくんもなんか言ってよ!」
「あったたたた。もーなんなの、いきなし」
 鼻っ柱を押さえ、藤がようやく身を起こす。
 指の隙間から覗く眼が、俺と大和を見て不思議そうにしばたいた。
「ああ、なるほどなるほど」
 顔やら制服やらについた土をはたき落とすと、重い腰を上げ、やがて納得したように首を上下に揺らした。
「状況、わかった?」
「ああ、今度は俺のターンだ」
 突き飛ばしたときに何本かネジが飛んだらしい。
 自信満々なその素振りからは、また何か面倒なことが起こる予感をひしひしと感じさせる。
「タイトルはそうだな、『俺は見た! ゲキ部に咲く恋の花!』」
 いいながら、藤は一枚の写真を取り出す。写っていたのは、大和と武蔵のツーショットだった。
 横からのアングルでとらえたその写真の中で大和は、両手で武蔵の顔を挟み込んでいる。手が邪魔で口元こそ見えないが、お互いの顔は真正面から密着し、その体勢はどうあっても偶然そんな風に見えてしまう事故が起こったとは考えられない。
 つまりこれは、知り合い二人によるキスシーンというわけだ。
「これを見ても、まだ俺達のことを妬むつもりか、大和!」
 犯人を追い詰めた探偵よろしく厳しい声を出すが、その台詞は大間違いにもほどがある。
 なんで俺と藤が付き合っているような口振りをするんだよ。否定しろよ。
「ふふっ、何言ってんのアンタもぎ取るよマジで」
 なんだか猟奇的なことを言いながら、大和は大和でアリバイは完璧だと言い張る犯人のような自信に満ちていた。
「そんなのただの稽古よ、稽古」
「稽古?」
「藤なら知っているよね? ゲキ部のキス練習はガムテープ越しだってこと」
 知るか、と思わず返しそうになったがどうにか直前で押しとどめ、代わりに目線を名指しされた本人へ移す。
 わずかに引き締まらせた唇は、そんな言い逃れができたかという驚きの混じった悔しさが滲んでいた。
「確かに感触はあったけど、そこは演劇部だもん、気にしたら負けよね。つまり、私と武蔵はただの部活動仲間! それ以外の何物でもないのよ!」
 その関係を、頼むから俺と藤にもあてはめてくれ。
「やれやれ、ヤマちゃんは素直じゃないねぇ」
「?」
 藤は小さな声で何か言い、呆れたため息をつく。が、それも一瞬のことで口元はすぐいつもの笑みを作り、それから降参とばかりに両手を挙げた。
「わかったわかった。お前達は恋人でもなんでもない。これでいいか?」
「う……そうよ。なんでもないんだからっ」
 そう言われた大和はなぜか急に歯切れを悪くし、俯いてしまった。
「じゃ、俺はこれで。あ、今日は部活に出ないからって、先輩に伝えといてくれ」
「って丸投げか!」
 何一つとして話が決着していないのに、背中を向けて立ち去ろうとした自由人の肩を掴む。
 また誤解されるかもと思いチラッと後ろに視線を投げるが、追及者はそれどころではないらしくまだ落ち込んだ顔を見せていた。
「説明しろ、誤解解け、部活出ろ!」
「あっはっは、いっぺんに言われてもわかんないなー」
 期待通りの反応ですとでもいいたげな笑い声を上げ、そらとぼける。
 絞めてやろうかこのアホ。
「ま、あれだよ。さっき言った通りキョウスケさんのところ行くから、しばらく部活は休むの」
「おいおいおいおい待て待て待て待て」
 確かにそんなことを言っていたが、部活を休んでまで、っていうのは聞いていない。だいたい、元に戻った後で俺はあのオヤジとどう接すればいいんだ。
「俺とお前とじゃぜんぜん雰囲気が違うっての、わかっているか?」
「ヤマちゃんが落ち込んでいるのはねー。ま、なんといいましょうか」
「聞けよ人の話!」
 人を振り回すような言動しか知らないんじゃないかと思わせるほどの自由奔放っぷりである。
 身体に気持ちが引っ張られると藤は言っていたが、先輩が好きという気持ち以外はとても影響されているように見えなかった。こっちがだんだん女っぽくなっていく思考回路に悩まされているのとは逆で、この女は不公平なまでに自分というものを保っている。
 ああ、本当にムカツク。
「ヒント、ヤマちゃんは衣装係」
「はぁ?」
「裏舞台専門の女の子が、役者さんと人のいないところで劇の練習をしてました。さて、この意味がわかるかな?」
 いきなり振られた謎掛けじみた質問に、沸騰しかけた怒りがグルグルとかき混ぜられる。
 なんなんだ、いったい。
「んじゃ、そーゆーわけで」
 いつのまに手を振り払ったのか、藤は再び背を向けて歩き出した。
 混乱しっぱなしの俺と、まだ暗く沈んだ様子の大和がこの場に残され、なんとなく気まずい沈黙が流れる。
「何よあの男、人の気持ちも知らないで。それに、あんな写真いつの間に……これだから写真部は」
 まるで部全体が隠し撮りをしているみたいな評価だ。
 否定しきれないのが辛いが、少なくとも俺はそんな真似をしたことはない。
「藤、カレシはよく選びなよ?」
「違うっつーの!」
 その台詞を待っていたようなタイミングで、校舎の中からチャイムが響く。
 俺に残された手といえば、いますぐあのバカを追跡して拘束するか、夕香先輩がすでに日課となったはずの部活動を放り出して自分の父親のところに行く俺≠、変な目で見ないことを祈るだけだった。
 ……うん、どっちも無理っぽい。


 放課後になり、いつも通り四階の部室を目指す。
 藤の身柄確保は、やっぱりというか残念ながら失敗してしまった。
 しかし同時に、この展開は好都合でもあることに気付く。藤がいては、先輩と落ち着いて話すことなどまず不可能だからだ。
 他の日ならともかく、今日ばかりはそうもいかない。
 カバンを持つ手と逆の位置に提げた袋が、心なしか重くなる。中は、昨夜のうちに突貫で仕上げたパウンドケーキだ。
 本当ならもっと趣向を凝らした物を贈りたかったが、昨日の今日ではさすがにそんな物は用意できなかった。それに、あまり凝りすぎても逆に藤らしくない。先輩にとってこれは、あくまでも「幼馴染の藤」からの誕生日プレゼントなのだ。
 そう思うとなんだか、急にやるせなくなってくる。だが写真部の部室はすでに目と鼻の先だった。
 ここまで来て今更引き返すのもおかしな話である。
「こ、こんにちわー」
 緊張を隠しながら、藤らしさを意識してドアを開ける。積み上げられた雑誌に囲まれた部室では、いつもと同じようにヌシたる夕香先輩が腕を組んで座っていた。
「やあ、藤くん。ごきげんよう」
 視線は一瞬だけ俺に移り、それからすぐまた机の上に並べられた二枚の写真に戻ってしまう。
「何を見ているんです?」
「うん、ちょうどよかった。キミにも査定してもらおうと思っていたところだ」
 査定ってなんの。と聞き返す前に、並べられた写真が目に入りそのとき俺に電流走る。
「こ、これは……!」
 右手側に、むずがるような表情でパジャマをはだけ、夕日を受けた肢体を扇情的にさらす藤の写真。
 かたや左手側には、寝息すら聞こえてきそうな安らかな表情で横になり、月明かりを一身に浴びる藤の写真。
「な、なななん、なんですかこれぇ!」
「無論、先日の看病の途中に盗み撮った。そしていまは、どちらの写真がより秀逸か、比べていたところさ」
 端的だが的確に説明してくれる。
「決定的瞬間を後世に伝えるのは、カメラを持つ者の義務だと思わないかな?」
 さらにはその思想まで聞いていないのに教えてくれた。
 俺が何も言えずにいると、先輩は再び机の写真に目を落とし、代わり映えのしない表情で可愛らしい唸り声を上げる。
「うぅむ。しかし、最近のキミは可愛くなる一方だね。これで振り向かない男はそうそういないんじゃないかな」
 まさか幼馴染が自分の父親をマーキングしているとは、露ほどにも思っていないらしい。……普通は考えないか。
 それより問題なのは、『可愛い』とか言われることにショックを受けはしても、抵抗感が薄れてきているってところだ。
 女の容姿を持っていたところで心は男。和弥がそうであるように、可愛いとか言われていい気分になる男などまずいない……はずなのに、いまの台詞には照れくさいという気持ちの方が大きいのは、単に聞きなれてしまったからか。
 はたまた、言ってくれたのが夕香先輩だからか。あるいは、女として過ごしているうちについに心まで女側に傾きかけているからか。
「うぅ〜」
 身震いがしてきた。できれば、相手が先輩だからという理由を当確にしてもらいたい。
 少なくともあと数日はこの身体のままでいなければいけないのだ。今日でこの生活も終わりだと思っていたからか、元に戻れる日が余計に遠く感じられる。
「しかし、この写真には違和感がある」
「え?」
「可愛らしいキミの姿は、これまでにも何度か見たことはある。だが、どこがとはいえないが、これは何かが違うような気がしてならないのさ」
 薄く笑いを漏らすと、先輩は両手の親指と人差し指で長方形を作り、そこから俺を覗き込んだ。
「写真はありのままを写す。そこに嘘はなく、あるのは人の先入観だけだ。……さて、ファインダーを通して見る藤くんに違和感を覚える私は、いったい何を思い込んでいるのかな」
 自問しているようで、質問をされているようにも聞こえる台詞だった。まわりくどい言い方に、話がうまく見えてこない。
「あの先輩、さっきから何を」
「いや、すまない。忘れてくれ」
 覗き窓を崩し、目線を二枚の写真に戻すと、気を取り直すようにして腕を組み写真の選抜を再開する。
 ひょっとすると、気付いてくれているのかもしれない。
 明確な言葉にこそ出していないけれども、先輩は俺が本当の藤ではないと勘付いている。そんな期待が膨らんでいった。
 正直に、言ってしまおうか。
 いままでのことを、全部。
「あ、あのっ、先輩」
「うん?」
 言葉はノド元まで出掛かり、しかし結局、そこから先は紡ぎ出せなかった。
 言ったら、嫌われてしまうかもしれない。
 不可抗力とはいえ、先輩のスリーサイズを知ってしまったり、藤にしか明かしていなかった内面を知ってしまったりと、後ろめたい出来事がないわけではない。そのことが余計に、俺の漠然とした不安を煽る。
「こ、これっ」
 これ以上この話題を続けていく勇気を失った俺は、ごまかすように、持ってきたパウンドケーキを先輩の前に差し出した。
「誕生日、おめでとうございます。ちょっと、いろいろあってこんな物しか作れませんでしたけど」
「ふ、藤くんが作ったのかい?」
 ひくっと口端を吊り上げ、笑顔を失敗したような表情を見せられる。
 改めて思うが、夕香先輩はどんな表情をしていても可愛い。気持ちをあまり顔に出さない分、たまに見せるあからさまな表情には強烈な破壊力があった。
 だからこそ余計に、嫌われてそれを失うのが、怖い。
「その、いや、気持ちは嬉しい。嬉しいん、だが……」
 ここまでうろたえているところを見ると、先輩は前に藤の手料理で酷い目にあった過去があるのかもしれない。まさかとは思うが、あの女は砂糖の代わりに塩なんていうベタで冗談のような失敗でもしたんだろうか。
「ちゃ、ちゃんと味見しましたから」
「あ、ああ……」
 先輩はあからさまに不安げな顔をして、プラスチックのタッパーを開けた。
 よほどの物を食べさせられたのか、恐々とした様子を見せる指先で一口サイズのパウンドケーキを摘む。
 ケーキと俺とを交互に見比べると、先輩は髪を揺らさずに小さく頷いた。
「そうだね。どんな物であれ、食べないのは失礼だ」
 その言い草の時点で充分失礼なわけなのだが、急ピッチで仕上げたために自信を持ってお勧めできる味にはできなかったのも確かなので文句は言えない。
 先輩は息を吐くほどにしか開かれなかった口の中に、摘んでいたカステラ風の菓子パンを押し込んだ。
 一口サイズのくせに半分しか減らなかったケーキを持ったまま、もくもくと小さなアゴを動かす。食べてから飲み込むまでの十秒にも満たない短い時間が、やけに長く感じられた。
「ど、どうです?」
「……おいしい」
 信じられないといった風に、先輩の口がたった四文字しかない言葉を紡ぎ出す。
 それだけで、俺は全てが報われたような気分になった。
 嫌われてしまうという不安も忘れ、ただひたすら嬉しさがこみ上げてくる。我ながら単純だと思うが、作り手にとってその台詞は、どれほど綺麗に飾られた評価よりも胸に染み入る一言なのだ。

 藤も和弥もいない静かな時間が、写真関係の雑誌に囲まれた狭い部室に流れる。
 自販機から買ってきた缶の紅茶と小さなパウンドケーキをお供にして行われるお茶会は、夕方の五時を報せる鐘を区切りに閉幕となった。
「藤くん。今日はありがとう」
「え? あ、いや、こんなのでよければ、いつでも作りますし」
「ふふっ、なら今度は、私の家で夕食を振舞ってくれないかな。ここまで上達していたと知れば、父もきっと喜ぶ」
 公園で出会った妙に若い男を思い出す。その気はないのに身体はキョウスケに反応したのか、ちょっとだけ胸が高鳴った。
「イヤ、かな?」
「い、いえっ。いつか、絶対に作りにいきます!」
「うん、ありがとう。一人で食べるよりも二人。二人より三人のほうが、きっと楽しいだろう」
 三人。という言葉が、少し引っかかった。
 話の流れからするに、先輩と、父親と、俺。内訳はこんなところだろう。
 そこで、一つの名前が挙がっていないことに気がつく。そもそも先輩の父親をターゲットにする以上、藤にしてみれば最大の障害があるのだ。なのに、一度だって藤はその存在を気にする素振りをみせなかった。
「あの……」
「うん?」
 夕香先輩の母親は、どうしているのか。
 聞けばきっと答えてくれるだろう。だがこの話は先輩にとって決して愉快な話ではないと、入れ替わって以来なぜか百発百中の直感が告げていた。
「いえ、なんでもないです」
「そうかい? おかしな藤くんだね」
 立ち入ったことは、いまは聞くべきではない。聞いたところで、それを知ったのは先輩にとって、あくまで藤≠セ。
 だからこの些細な違和感は、せめて元に戻るときまで、胸のうちにしまっておくことにした。
「ふぅ」
 まるで俺の気持ちを代弁するかのように夕香先輩がため息をつき、壁に掛かった時計を見上げる。
 そういえば、十分ぐらい前にも同じ仕草を見た。
「誰か待ってたんですか?」
「ふむ、さすがだね。その洞察力にはおそれ……」
 いつもみたいにやや大仰な褒め言葉が飛んでくると思いきや、先輩はなんの前触れもなく、いきなり小難しい顔つきを始める。
 鋭い眼差しを何度かしばたたかせ、やがてまぶたを下ろして黙考し出した。
 怒っているわけではないだろう。無表情が率先して顔に出てくる普段の先輩に戻っただけだ。
 ただそれだけのことなのに、俺は何か失言をしてしまったのかと、もやもやとした焦りを生む。
「キミは……」
 ようやく口を開いてくれた先輩だが、それ以上の台詞は出さずに、自分の寂しい胸元を見て軽く首を振った。
 自分の胸の大きさに落胆した、というわけではもちろんないだろう。そんなことは今更過ぎるし、大きければいいものではないとこの身体になってからは特にしみじみと思う。肩は凝るし走るとき邪魔で仕方がない。などとそんなどうでもいいことを考えている辺りになかなかの余裕が見え隠れしているかもしれないが実際にはそんなことはなく、いろいろと混乱中だったりしていた。
「……いや、なんでもない。そろそろ帰ろうか」
「は、はい」
 些細なことで恐々としてしまうのは第六感が鋭いのか、それとも情報伝達の電気が脱線しまくった思考回路の成せるわざか。あるいは、俺が気弱すぎるのか。
 なぜかそのとき、俺に向ける先輩の目が、疑いの色を持ち始めたような、そんな気がしてならなかった。


 藤は、宣言通りに行動を開始していたことが早速わかった。
 なんでも、学校が終わればすぐさま夕香先輩の自宅へ行き、親父の手伝いを買って出ているという話を、翌日の部活中に先輩から聞かされたのだ。
 嬉しいことに俺の性格をよくわかってくれていた夕香先輩は、まさか自分の父親とここまで気が合うとは思っていなかったと言って驚いていた。まさにその通りで、陽気で軽快なのは結構だが、そういったテンションで人にジャイアントスイングを仕掛ける人間を、俺はどうも苦手としている。
 逆に、ぶんぶん振り回されてもそれを大笑いできる藤ならば、あの父親とは直感だけで意思疎通を可能にするぐらい、仲良くなれるだろう。
 相変わらず、あの女は元に戻ったあとで俺が困るなんて殊勝な考えは持っていないらしい。
 ならばこっちも好き勝手してやろうと俺が取った行動は、奨励祭に向けてのケーキ作りに精を出すことだった。
 夕香先輩の反応から、藤は裁縫の腕がプロレベルでも、料理の腕はからっきしだということが窺える。そんな女が、無駄に露出率の高いガイド服を着て、美味しい手作りケーキを振舞う光景は、きっと学校中に旋風を巻き起こすだろう。
 さらには俺自身も気兼ねなくお菓子作りの腕が揮えるという、おいしい特典付きだ。
 衣装はすでに完成し、いまは夢の島ルームに保管されている。
 夕香先輩にはサプライズ発表したいのだということで、当日まで伏せておく予定で藤から押し付けられたのだ。
 藤は自分がサイズを間違うはずはないと言い切り、試着も当日までのおあずけにされている。
 だが藤のことだ。動けば糸がほつれるような、そんな小細工が仕込んでいないとも限らないので、内緒で先に試着してみた。見ているうちに無性に着てみたくなったとか、そんな意図は決してない。いや、いまの思考ノイズはナシ。初めからナシ。
 そんな、自分の感覚が徐々に女性化していっているような日々に恐れおののき、その傍らで時は無常に過ぎ去り、奨励祭の日は着実に近づいてきた。

 ――ある日は設営準備に追われ。
「ケーキは作り置きするとして、どうやって保存するんだ?」
「家庭科室に小さい冷蔵庫あったよね。それ借りようよ」
「……脅すなよ?」

 またある日は、夕香先輩が衣装を恥ずかしがり。
「ふ、藤くん。この衣装はさすがに、その、なんだ」
「わかりました、上に何か羽織ってください。というかむしろお願いします。先輩の肌をさらそうとしたアタシが馬鹿でしたぁ!」
「ああ、助かる。……キミが前言撤回とは珍しいね」

 とある日などは、和弥に迫られ。
「仕事のシフトは男女ペアがいいに決まっています。だから藤先輩は自分と組むのでありますっ」
「いや、その理屈は……正しいけど却下。公平にクジ引きだ」
「男二人によるガイダンスなんて、誰が得するのかさっぱりなんだけど」

 それでも特に大きな問題は起きず、比較的平和に過ごしながら。
 いよいよ奨励祭の日――今度こそ元の身体に戻れる日が、始まるのだった。

      *      *      *

《これより、第十三回、雨樋学園奨励祭を、開催いたします》
 午前九時。奨励祭の始まりを告げる放送が校舎の内外を問わずに響き渡った。
 そこかしこから拍手が聞こえ、C組の連中は祭りを堪能すべく、午前のシフトメンバー以外の全員が我先にと廊下へ出て行く。
 そんなクラスメイト達を横目に、俺はカーテンで遮蔽されただけの仮設更衣室に入った。
 机の上に折りたたまれ鎮座する真紅の服は、以前の試着からさらに変貌を遂げた、四ノ宮藤専用チャイナドレスだ。専用との名が付くからには、色は赤! とよくわからない主張をした大和の言を忠実に守ったカラーリングは、派手の一言に尽きる。
 藤専用チャイナは以前と同じくきわどいスリットを維持している。なおかつ、ボディラインを引き立たせるフィット感も健在だった。少しでも太腿の隙間をなくそうと裾を引っ張れば、今度は胸が服に押し付けられて強調されるという凶悪なデザインも相変わらずだ。
 ただし今回は、ギリギリセーフを唱えた実行委員の唯一の功績として、任意でパレオの装着が認可されていた。腰に巻いてスカート風にコーディネートを施せば、ギリギリラインもなんとか隠すことが出来る。
 着心地はやっぱり落ち着かないけれど、それでも少し救われた気分だ。
「ふぅーじぃー、着替え終わったー?」
 カーテンの向こう側から、大和の声がかかる。
「う、うん」
「よっしゃ開けるよいいねってか問答無用、ほらご開帳ぉーっ!」
「え、うわぁっ!」
 急にテンションを上げた早口が終わると同時に、カーテンが勢いよく取り払われた。内装を中華風に飾り付けた教室に残っていたクラスメイト達の、ライオンのような目ヂカラが一斉に襲い掛かってくる。
「キタ━━━━(゚∀゚)━━━━!!!! 」
「オレにヨシ!!(゚д゚)うんヨシ!!(*゚Д゚*)」
「(;´Д`)ハァハァハァハァハァハァハァハァ」
 ライオンどもが怒号にも似た喜びの声を上げて狂乱する。中には通報されても仕方のない反応をする輩までいた。
 ここまで狂喜されるとむしろヒいてしまう。C組にはまともな人間がいないんだろうか。
 カーテンを開け放った大和の服も、色違いとはいえ俺と同じマイクロミニなのに、不思議と彼女に視線は集まっていない。
 やはり赤カラーは特別なのか? ……よくわからん。
「ふっふーん、可愛いでしょ? エロイでしょ? でも、この娘はいまから私が独り占めするのよ! どう、羨ましいでしょ!」
「はい?」
 それはいったいどういうことだ。
「ガッデム! なんてこったい!」
「いや、むしろご褒美だ!」
「ふふっふーん。ってわけで行くよ、藤」
 やんややんやとエキサイトしっぱなしのケモノ達を得意げに一瞥し、大和が俺の手を引く。
「い、行くって?」
「廊下に決まってんじゃん。私とのゴールデンコンビなら、千客万来よ!」
 大和はグッと拳を握り、やたらと張り切った気迫を見せている。手を引かれるまま廊下に出ると、他のクラスから客引きの声が聞こえ、早くも祭りらしい賑わいを感じた。
 ああ……そういえば俺もやるんだっけな、アレ。
 ようやく合点がいった。この時間帯の客引き担当は俺と大和の二人だけなので、確かに独り占めと言えなくもないというか、なんでいちいち紛らわしい言い方をするのか理解に苦しむ。
「こら、なんて顔してるのよ」
「か、顔?」
「やる気なさけじゃない。元とはいえあんたも演劇部なんだし、作り笑顔ぐらいしてなさいって」
「……はぁ。わかった」
 とはいえ開催直後では、やはり客入りのテンポは緩やかなものだ。
 まずは面白そうな展示やイベントから覗いていく。そして小腹が空けば模擬店で一息つく、というのがお決まりのパターンだろう。よって、忙しくなるのはおそらく昼頃。午後から俺は部活の方に行く予定なので、シフトは午前中の二時間までとなっている。
 そのため混雑する時間帯は回避できるが、口コミの宣伝効果を狙うのなら早い時間から人目をひきつけたほうがいい。大和はその戦略を最大限に活かすため、プロポーションとテンションの両方がビックサイズという藤を先鋒としてもってきたに違いない。なかなかの策謀家である。
 だが果たして、行きかう人波が送りつける好奇の眼差しは、ちくちくと痛いばかりで入店への後押しにはなりえていないように思えた。
 俺に言わせてもらえば、店の入り口にこんなきわどい格好をした女が立っているのを見た時点で尻込みしてしまう。学校という、顔見知りがたくさんいる場所であることも、おそらくは足を向けにくい原因の一つだ。
 つまり大和の作戦は失敗に終わったわけだ。つーかむしろこのまま終わってくれ。
 ――その願いは、届いた。
「一人なんだが、入れるかな?」
「は、はーい、いらっしゃいま……せ」
 宛先はマッドな神様のところだったらしい。
 針のむしろに座っているような気分で、半ばヤケ気味に顔に貼り付けた営業スマイルを搾り出す。が、それもほんの一秒で崩壊した。
「やあ、藤くん。今日のキミのテーマは、セクシィかい?」
「せ、せせ先輩? う……いや、あの、この格好……いや、その格好は……?」
 見られたくなかった人ナンバーワンにそんな指摘をされ、一気に体温が平熱を上回る。それでもどうにか口がきけたのは、きっと先輩の衣装のおかげだ。まあ、おかげ、というにはあまりにもアレな感じだが。
「私の服装が、何かな」
 俺の格好とは逆に、黒マントとハーフマスクという限りなく露出のない服装。これはもう気にしないと前に決めたばかりだし、そもそも祭りの真っ只中なら、その格好は特別おかしなものではない。
 じゃあ何が問題なのかというと、だ。
「……うわぁ、エロいんだか怪しいんだか」
 怪訝な大和の声が、それを指摘する。
 マントの下に着ているのは、写真部で使うガイド服だ。
 深い青色をしたタイトのワンピースが彼女の羽織る大きな暗幕に包まれ、もともとエロスを滲ませていた衣装に妖艶さが加わっている。
 ペルソナ付きの怪人というより、魔女や吸血鬼のイメージが近い。学園祭の出し物ではなく、ハロウィンでの出演を勧めたい格好だった。
 この俺でも唖然とするぐらいだ。先輩は変な人という予備知識を持った程度でしかない周囲にいたっては、怪訝を通り越して不気味がるような目つきをしている。
「入れるかな?」
「申し訳ございません。うちはマントを付けた怪しい人の入店はお断りしています」
 俺がいいと頷くより先に、大和が毅然とした調子で入店拒否を告げた。もちろん、そんなたったいま思いついたかのような規律など初耳だ。
 大和は何をそんなに怒っているのかと思わせるぐらいの剣幕で、さらに眉間にしわを寄せながら口を開く。
「あのですね、藤にこれ以上ちょっかい出さないで下さい! あなたみたいな変な先輩と一緒にいるせいで、この子まで変な目で見られているんですよ!」
「いや、それはない」
 藤がおかしいのは元からだし、その頭の固い保護者のような言い草はどうかと思う。だが大和は相変わらず、俺の話を五分たりとも聞いてくれなかった。
「だいたい、先輩が藤を無理矢理写真部に入れるから、藤はこんな格好をして、お客さんを呼ぶ係りなんかになっているんです。ああ、かわいそうな藤!」
「いや、何言ってんのお前」
 大和は前からなんとなく先輩を毛嫌いしているようなフシはあったが、まさか面と向かって噛み付き掛かるとは思わなかった。というか、こんな格好をしているのは間違いなくお前が原因だろうが。
「……私は藤くんに、いや、他の誰かに何かを無理矢理強制した覚えなど一度もないのだが」
 結構あったような気がするが、先輩の性格を考えるのなら、本気で嫌がればそれらを取りやめてくれたはずだろうとも思った。
 初めて会ったときのあの写真だって、きっと真剣に拝み倒せば返してくれただろう。勝手な想像ではあるが、間違っている気はしない。
 なぜなら、もし先輩が人の嫌がることを本気で行うような人間ならば、俺はそんな人になど惚れていないからだ。いや、何も言うな。ずいぶんと妄想力のハジケた恥ずかしい考え方だというのは、自覚はしている。
「強制なんかしてなくても、周りの人は変人と一緒にいるのは変人だって思うようにできているんです!」
「それは藤くんへの理解が足りない証拠さ。それに私も、自らが変人だと公言した覚えはない」
「そんな変な格好をしてて、何言ってんです!」
 首肯しかけた。が、エロス満開のチャイナを着ている女がそれを言うか。
 とりあえず、そろそろ止めないとこの不毛な争いはいつまでたっても終わりそうになかった。
「あ、あのー二人とも、もうその辺でやめてほしいかなーって。あ、あはは……」
「……仕方ない、ここは私が折れるとしよう」
 そう言うと夕香先輩は外套をバッと翻し、人ごみに道を譲られながら悠々とした足取りで去っていった。しかしその背中は心なしか煤けて見える。
「ふんっ、おととい来なさいっ」
 大和はといえば、そんな後ろ姿を見送って鼻を鳴らしていた。
「はぁ……言い過ぎ」
「えぇ? だってホントのことじゃん」
 その台詞に、俺は以前と同じく言葉に詰まってしまう。
 まただ。また俺は、好きな人の悪口をただ聞くことしか出来なかった。
「……ち、ちが」
 出てくる語彙は貧弱で、薄っぺらくて。
 これ以上、言葉を続けられなかった。
「おーい、ヤマちゃーん。お客、なんか並んできたよー?」
「あっとごめんごめん。いまご案内しまーす。ほら、藤もそんな顔してないでさ」
 大和はあっさりと話題をシャットアウトし、営業スマイルを再開させる。
 だが俺は、いまの気分ではとてもそんな風に笑えそうになかった。


 チャイナの次に背中丸出しガイド服というコスプレコンボも、意識が半分以上違う方向を向いていてはなんの感慨も湧いてこない。
 すっかり慣れてしまった女の服の着替えに手間取ることもなく、ほとんどオート状態のまま衣装を装着した俺は、ため息をつきながら、備え付きの椅子に崩れ落ちるようにして座った。
 一緒に仕事をする相手はまだ来ていない。
 俺と和弥とで設営をした衝立には、幾枚かの写真が飾られている。その横には短冊サイズのプレートが掛けられ、それぞれにタイトルが付いていた。
《夜のトバリのひと光り》
 部活中だろうか。なにやら言い合いする俺と藤を撮った写真だ。もちろん、時間は夜じゃない。
《SING MY ANGEL》
 直訳すれば、歌う私の天使。ただ、傘を差しただけの藤をそういう目で見られるのかは疑問だ。
《燃える想い》
 燃える要素なんて一つもない、大あくびをかました俺。嘘タイトルにも程がある。
「先輩……」
 こんな調子で俺や藤を中心とした日常風景にズレたタイトルを付けてあるのが、我らが部長の作品だった。
 仮に何か深い意味を込めているのだとしても、残念ながら俺には解読できそうにない。
「おいーすっ、タカくん。何してんの?」
「ひゃっ」
 写真を凝視していた俺の背後で、能天気の塊がいきなり現れる。
 音もなく出てきてくれやがったおかげで、変な声が出てしまった。
「おっ、怯える姿もカワイーねっ。さすがあたし」
 人を驚かせておきながら、相手はニコニコと愛想を振りまいている。
「う、うるさい黙れ何しに来た」
 恥ずかしい思いに襲われる顔をそむけ、早口で吐き捨てる。くじ引きの結果、写真のガイド役は前半が俺と和弥というメンツになったため、藤の出番はとっくに終わったはずだ。
「いやま、ヒマだったからさ。二人だけだと、厳しいだろーと思って」
 疑問を見透かしたのか、あっさりとした調子でいやに納得できる答えを返してくる。
 チャイナ喫茶で働いていた際、美術室でまた会おうなどと言ってくる客達が、とにかく後を断たなかった。でれっとしたあの眼差しには、チャイナドレスだけでは飽き足らず、ガイド姿も拝み倒そうという魂胆がはっきりと映っていた。
 つまり写真部はこれから、俺目当ての客で溢れるに違いない。
 藤はそんな苦々しい俺の気持ちに気付いたのか、あるいは、元は自分の顔だけにいまの表情がどんな気持ちでいるのかわかりきっているのか、
「人気者はつらいねぇ」
 自画自賛とも皮肉とも取れる、そんな一言をよこしてきた。
「俺じゃなくて、先輩をそうしたいんだけどな」
「なんでセンパイ?」
「先輩がどんな風に思われているのかぐらい、お前も知ってるだろ」
 今朝の、大和とのことを思い出す。
 藤と夕香先輩の付き合いの長さは俺の比ではない。「先輩は害のある変人」という先入観を払拭する秘訣も、この女なら簡単に見つけそうな気がしてきた。
「あー、なるほどね。そっかそっか」
 何度か頷き、何かを一人で納得している。
「なんだよ?」
「いやぁ、タカくんは本当に夕香センパイが好きなわけだね」
「うっ」
 得意げにさらりと言った台詞があまりにもストレートすぎたためか、言葉に詰まった。
「ふふぅん、赤くなってる。その様子なら、まぁ心配ないだろうけど……もしセンパイ泣かしたら、オシオキだからね」
「オシオキ?」
「そう。センパイに悪い虫がつかないようにって、鍛え抜いたんだよ? そのカ・ラ・ダ」
 藤はいたずらめいた顔をし、俺の胸をちょん、と指先でつつく。
「さ、触んなっ。だいいち、いまそんな話はしてないだろ」
「まあまあ落ち着きなさいって。実はあたしも、同じように考えたことがあるのよ。センパイのために、何かあたしに出来ることはあるかなって」
「あ、ああ……」
「でもさ、こういうのはやっぱり本人の問題なんだよね。もちろん、見放したわけじゃないよ? でもセンパイって、周りには繊細なくせに自分のことになると強情だから」
「わかってる」
 自分勝手に見えて、周りにはしっかり合わせることのできる。けれど、決して自分の中にある譲れない一線は守り通す、我の強い人で。
 俺はもしかしたら、あの人のそんな一面に惹かれたのかもしれない。
「だけど、本当は怖がりで恥ずかしがり、っていうのも知ってるよね?」
「ああ」
 雷の一件もそうだし、俺を部活に勧誘していたときにも、仮面に隠されていなかった瞳にはどことなく脅えた色が宿っていたのを覚えている。
 勧誘を断られることを恐れていたのか、切り札である秘密の写真を俺が強引に奪い返しにくることを懸念していたのか。それは本人に聞いてみないとわからないが、とにかくあのときの先輩は、とても不安がっていたことだけは間違いない。
 なのに、口調だけは妙に落ち着き払っていた。
「そこがまた、可愛くて仕方ないんだよねぇ。いじらしいっていうの? 一つ年上なんだけどさ、それもギャップがあってメルシー神様っていうか?」
「いじらしい……ああ、そうだ。それだ!」
 初めて他の人間の口から先輩を支持する声を聞き、何度も何度も頷く。最近気付いたが、どうも夕香先輩のことに限ってだけは、藤とはこれ以上ないほど気が合ってしまうらしい。
「話がずれたかな。とにかく本人が変わんなきゃ、悪い噂はなくなんないってこと。それに……」
「?」
 声のトーンをふいに寂しげに落とし、藤は目線を例の短冊プレートに移した。
 謎の題名を、静かな口調でいくつか読み上げる。もっとも読んでもらったところで、その内容や写真との関連性はやっぱりわからなかったが。
「これは全部、普段出さない夕香センパイの本音だよ。そう思うと、ゾクゾクしない?」
「ゾクゾク……?」
 ふざけているのか本気なのか判別しづらいことを言い、笑顔で自分の身体を抱きしめる。けれど、言葉には一貫して真剣味があった。
 もう一度、自分の目で短冊を改める。
《ありし日の友》
 そんなタイトルがつけられているのは、俺と藤が入れ替わってからの写真。俺が熱でうなされていたときの写真だ。
 何がどう本音なのか、やっぱりさっぱりちっともわからん。
「こんなこと、いままでは文章でだって表に出さなかった。けど、センパイは変わった。周りがどうこうしなくたって、あの人は自分で勝手に変わっていけるの。だったら、センパイが大好きなあたし達は、センパイが困ったときにすぐ力になれるよう傍にいてあげるだけで、いいんじゃないかな」
「……でも、悪く言われているのがわかってるのに、ほっとくのは」
「あー、タカくんタカくん。そんな、俺がなんとかしてやんなくちゃ的な考え、古いんでない?」
 疲れたような呆れたようなため息を漏らし、やがて『これはあたしの話だけど』と前置きをしてから、今度は雰囲気だけではなく口調も、目つきまで真剣そのものにして、一気に語り始めた。
「たとえばっ、子持ちのバツイチなんて男にあんまりいいイメージは持たれないものだけどさ、そんな世間様の意見なんて、知ったことじゃないでしょ? その人が好きだから好き。周りがどんなに悪く言っても、やっぱり好きだっていうなら、問題ないの。変な人? バツイチ? 幼馴染のお父さん? そんなの関係ない! その人が好きで好きでどうしようもないんだったら、あとはこっちも、全力で、ハードルを乗り越えるのみなのよ!」
「…………」
「大切なのは、その人が好きだと迷わない自分の気持ちっ。周りの批評も黙らせる、フルパワーな愛の言葉! キング・オブ・突撃ラブハート!」
 自分の姿が、演説ぶって好きだ愛だと叫ぶ姿を見るのは、なんというか恥ずかしさで悶え死ねる。それに一歩間違えれば、駆け落ちや犯罪に走りそうな理屈だった。
「わ、わかった。わかったから落ち着け」
 これ以上喋らせたら、開店前の展示室に電波炸裂の愛を説く男が出来上がってしまいそうだ。
 だがおかげで、気持ちはさっきと比べてだいぶ軽くなっている。かなり強引な論法だったが、納得できないでもなかった。
 ヘタに人気を上げようなんて、そんなことを考える必要はなかったのだ。身もフタもない言い方をするが、夕香先輩は変な人で、やはり違いない。
「それでも、好きだって思える気持ち、か」
 藤にはきっと、あの父親が力いっぱい好きと言えるだけの言葉がある。さっき言っていた数々の障害さえ、やがて全てぶち壊し、やがてキョウスケに想いを伝えるのだろう。
「……すごいな、お前は」
「言ったでしょ。恋する乙女は無敵なの」
 正直、羨ましく思った。先輩のどこが好きか、いまだにぼんやりとしたままの俺とは明らかに違っている。
 もし、今度大和に訊ねられたとき、俺はちゃんと言えるのだろうか。
 夕香先輩のどこが好きなのか。
 それを、力いっぱい伝えることが出来るのか。
「気楽に考えてみれば、自然とわかるよ。あの人のどこが好きなのか、どうして好きなのか。そして、自分はその人のためにどうすればいいのか、ね」
 電波の受信を終えたのか、口調がいつものお気楽さを取り戻している。
 直後、壁に掛けられた時計の針が午後の一時を示し、チャイムが響いた。
 間延びした約二十秒を要する鐘の音が鳴り止むのとすれ違いざま、コツコツとドアが鳴る。
「入れるー? 写真部って、ここだよなー?」
「早っ」
 ドアの前で律儀に待ち構えていたかのようなタイミングだ。もしかしたら、さっきの愛の語らいも聞いていたかもしれない。
「いらっしゃーい、中にどうぞーっ」
 やるせない恥ずかしさに襲われる俺を押しのけ、藤は慣れた調子でドアの向こうの人間を呼び込んだ。
「お、おい、和弥がまだだろ」
「ん〜でも、開店遅らせるわけにもいかないし?」
 藤は明るい調子でドアに声をかけ、それから遅れて三人の男達が入ってきた。幸か不幸か、全員知らない顔だ。
 それまで軽薄な笑みを浮かべていた客達は、俺を見た瞬間、ピタリと口を閉ざした。理由は考えない。ああ、考えるものかよ。
「おーおー、みとれちゃったか? 恋の奴隷三名様ご案内だ。頼んだぜ、可愛いガイドさん♪」
「うぐ……わ、わかったよ」
 皮肉っぽく喋り方を男モードにチェンジし、藤は白々しい微笑みを浮かべながら、壁際に設けた衝立の裏へと消えていった。
「あのぅ、その」
 クラスの模擬店と違い、一人でこの男達に対処しきらなければいけないという状況に、まず頭がついていけない。
 それでなくても、いまのいままで真面目っぽい話をしていたのだ。そう簡単に頭を切り替えられるはずがないじゃんか。
「二人でーす。可愛い女の子とおいしいケーキをくださーいっ」
「うをっ!」
 フリーズしているヒマなどあり得んとばかりに、後続の客が顔を出す。だが、またしても客は俺を見た途端に頬を染め上げ、硬直してしまった。
「え、えーと、あの。ご、ご案内しまーす。こちらへどうぞ」
「は、はい。お手柔らかに」
 ぎこちない笑みを浮かべながらそう言うと、客達もまた、ギクシャクとした足取りで客席に着く。
 そのあとも次々と新規の客が現れては、みんながみんな、なぜか俺に目を奪われていた。
 お前等、そんなにエロスが好きか。


「四ノ宮さん。どうだい、この後。僕と二人でさ」
「断るっ!」
「うぉっ、な、なんだよ……ったく」
 きっぱりとした態度で一蹴してやると、男は俺が作り置きしておいた最後のケーキを飲み込むように食べ始めた。
 作り手としては笑顔でゆっくりいただいて欲しいのだが、それなら誘いを断るにしても――いくら、いろんな人間から似たような台詞を聞き続けていたせいで気がささくれ立っていたにしても――もう少しオブラートに包んで言ってやったほうが、相手も機嫌を損ねなかったかもしれない。
 何人目かもわからないナンパ男は、そのまま不機嫌を露わにしながらケーキを完食し、一言も喋らずに部屋から出て行った。
「はぁ……疲れた」
 椅子に座り、ようやく一息つく。時計を見ると、針はすでに四時を刻んでいた。
 奨励祭の一日目ももうじき終わる。にもかかわらず、外の賑わいは衰える様子はまったく見えない。噂じゃ、演劇部が盛んなんだとか聞いたが、いまからそれを見に行くだけの気力も、体育館まで行く体力も残っていなかった。
 開店からこの時間まで、ほとんどノンストップで客が入ってきたし、何よりも視線が厳しかった。
 特に気になったのは、下心のある男どもの目だ。ああもう、思い出すだけで身体中がぞわぞわする。
「お疲れー。大人気だったねぇ」
「…………」
 褒めているようでまったく褒めていない藤の労いにも、俺はどこかの殺し屋を気取って三点リーダーを返すのが精一杯だった。
 何も考えるヒマもないほどに身体を動かしたからか、頭だけは妙にスッキリとしているのが救いだ。
「タカくんさ、やっぱりあたしより才能あるよ。女の子の」
 性差に才能とかが関係あるのかはともかく、まるでまたもや『もうしばらくこのままでいようか』なんて言い出しそうな口ぶりに、不安を覚える。
 いろいろ思うこともあるが、さすがに今度ばかりはそれを承諾するつもりはない。というよりも、これ以上この身体で過ごしていたら、藤の言うところの女の才能とやらがメキメキと磨かれていく一方な気がしてならなかった。
「約束、守れよ?」
 もはや一刻たりとも女でいるつもりはないのだと、目ヂカラで返答する。
「はぁ、やれやれ。……待っててね」
 藤は、まるでこちらの言い分がわがままだとでも錯覚させるような素振りを見せ付けてから、俺に待機を命じた。もちろん子供じゃあるまいし、待っていろと言われて棒立ちしているつもりはない。
 入り口に鍵を掛け、廊下側の窓ガラス、さらには天窓の施錠も徹底的にチェックし、スネーク一匹の侵入も脱出も許さないようにする。それらが一通り終わった頃から間を置かず、藤はカメラバッグを携えて戻ってきた。
「すっごい今更だけどさ、これ使っても、元に戻れなかったりしてね」
「笑えねぇ」
「だよねー。それにこのままじゃ、キョウスケさんの恋人になれないしー?」
 年の差などには目もくれていないらしい。想いを伝えることになんの抵抗もないようだ。
「タカくんになったおかげで、いろいろキョウスケさんの気持ちも……あ、あれ?」
 うきうきした語らいが、カメラバッグの中身をのぞいた瞬間、不安しか実らせない呟き声に取って代わった。
「どうした?」
「………………ない」
 身じろぎせず口だけを動かして、たった二文字を抑揚のない声で囁く。
 化物と直面したように色を失ってみせれば、あるいはさすが元演劇部だと褒めたかもしれない。しかしそう言った藤の顔は、声を掛けることさえためらわれるほどに、なんの表情も浮かべていなかった。
「待ってよ、だってあたし、ちゃんと中に入れたよっ?」
 自問自答する語尾が徐々に上ずり、口調からは余裕が失われていく。
 初めて見るその取り乱し方は、俺をからかうとか、嘘を言っている風には、とても見えなかった。
「どうしよぉ、タカくん」
 いつものひょうひょうとした面影はいまやどこにもなく、泣き出しそうなほどの哀れさを含んだ声が、悪い予感の当確を明らかにする。
「カメラ、なくなってる」
「……盗まれたのか?」
 ひしひしと感じられる藤の焦燥が、逆に俺を冷静にさせたのかもしれない。
 自分でも驚くぐらいに、すんなりと言葉が出てきた。
「そ、そう、みたい……」
「ずっとここに置いていたのか?」
「う、うん。朝から、荷物は全部ここに」
「ってことは……犯人はここに来た客達か、鍵を持っている顧問か。この美術室は一階だから、外から入ってきた可能性もあるなっ」
「えっと、つまり、何もわかんないって事だよね」
「その通りだ」
 あれ、いま俺、藤に突っ込まれたのか? あの、ボケの塊に?
 うわ、なんかすっげぇ悔しい! ってかああもう、やっぱり俺も混乱しているみたいだよコンチクショオォ!
「あぁーーッ!」
 結局あたふたするしかないと思い始めた矢先、素っ頓狂な声がパニックしかけた頭をハッとさせる。
 その声の主はというと目を見張り、俺の背後を指差していた。
「な、なんだよ? げぇっ!」
 つられて振り返り、すぐに藤の驚きを理解する。
 窓枠の向こう側。いまだ活気に満ちた廊下を、ニヤニヤと気持ちの悪い笑みを浮かべながら歩く痩せ男がいた。
 以前、和弥と一緒に食事をした時に、少しだけ会った覚えがある応援部の先輩だ。そんな男が、なぜか首から古めかしいカメラを提げている。
「アレって……だよな」
「うん」
 動機はともかく、状況証拠としては十分だ。
「犯人シメてくる。元に戻るの、もうちょっと待ってね」
 拳を鳴らしながら、笑顔なのに凶悪な凄みを浮かべた表情で戸を開ける。
 藤は人いきれの中に飛び込むと、大声を上げて走り出した。
「ひぃっ! なんだいキミはっ。うわあああああああ!」
「逃げんな待てぇ! カメラ置いてけゴルァッ!」
「あー……」
 上級生を怒鳴りながら追いかける自分の姿を見送りながら、どうしたものかと着地点のない声を出す。
 俺も一緒に行けばよかったが、出遅れてしまった上に、悪い意味で目立っている追跡者の後を追うのはさすがにためらってしまった。
 犯人確保は藤に任せて、言われたとおり大人しくしていようかなと、自分でもどうかと思わなくもない投げやりな考えに身を任せようとした、そのときだ。
「先輩」
「あ?」
 開け放たれたままのドアから、こっそりと和弥が顔をのぞかせる。まるで、俺が一人になるのを見計らったようなタイミングだ……というのは、自分が疑い深くなっている証拠か。
 カメラを盗んだ犯人はあっけなく見つかったのだから、邪推する必要はない。そのはずなのに、どうしてか和弥の笑顔に黒いものが見え隠れする。
 笑顔?
「なんで、お前は笑っているんだ?」
 和弥は本来、俺と同じ時間帯に店番をするはずだった。それなのに今更になって姿を現し、悪びれることなくニコニコしている。
 明らかにおかしい。さらに凝視すると、美少女ヅラがだんだんタヌキのように見えてきた。
「先輩。大事なお話があるのです。ついてきてもらえませんか」
「いやだ。ここで聞く」
「……わがまま言わないで欲しいであります」
 人を化かしそうな笑顔を浮かべたまま、和弥は俺の手首を強引に掴み取ると、背を向けて歩き出す。
 女のような顔をしててもやはり男ということか、握る力はかなり強かった。
「痛ッ、離せ!」
「騒がないでくれませんか 鷹 広 先 輩」
「ふざけ………………は?」
 いまのは、なんだ?
 聞き間違いでなければ、和弥はいま、確かに俺本来の名前を呼んだ。
 それは、つまり。
「じゃ、行きますよ」
 もう俺が逃げることはないと判断したのか、引っ張る腕の力が少しだけゆるくなる。
 そんな気遣いに気を回せるほど冷静になっているのかといえば、そうでもない。
 脊髄反射のみで右足左足が動き、思考力は混乱の渦でいままさに洗濯中だった。
 ……うん、自分でもわけがわからん。


 足音に草を掻き分ける音が混じり、ようやくが自分がいまどこにいるのかはっきりする。
「体育館の、裏?」
「ここなら滅多に人は来ないのです。演劇部の上演が、いい目くらましなのであります」
 和弥の言うとおり、すぐ隣にそびえ立つ体育館からはやたら張りのある声が聞こえていた。
 壁越しでも充分すぎる大音響だ。ここならちょっとやそっと騒いだ程度で、周りに声が漏れることもないだろう。
 辺りには空き缶やハサミ、ダンボールやガムテープなどといった演劇部の小道具が放置されている。それらは、まるで何年も前からそこにあったと錯覚してしまうほど、使われた形跡というものが感じられなかった。
 まるでここだけ別空間のようで、だからこそ常識はずれの話題をするには、好都合だった。
「いつから、知っていた?」
 深呼吸を一つしてから、直球でたずねる。
 和弥は俺のその言葉を待っていたのか、屈託のない笑みを湛え、嬉しさをいっそう滲ませた高めのテナー声でまたしても俺の名前を呼んだ。
「最初からであります。鷹広先輩」
 和弥は、全て知っていたわけだ。俺と藤の間に何が起こったのか。
 自分と話している相手が、本当は誰なのか。
「好きなんですよ、夜の学校が。そしたら偶然、お二人がいろいろ言っているのを聞いて」
 最初から知っていて、それなのに、知らないフリをして、俺達に近づいて。
 そうまでして、この男は何がしたかったのか。
「応援部の先輩がカメラを盗んだのも、お前の指示か?」
「正確には、「自分が預けた」のですけど……そんなこと、どうでもいいじゃないですか」
 どうでもいいとは思わないが、あの男はいま藤が追っている。
 ならば俺は、この黒幕をどうにかすべきだ。
「いやだなぁ、先輩。女の子がそんな顔して」
 和弥はくすくすとノドを鳴らし、この期に及んでまで俺をコケにする。
「俺は男だ!」
「先輩は可愛いんですから、そんな顔しても、もっと可愛くなるだけですよ」
「うるさい黙れ口説くな俺は男だってんだろ!」
 怒りに身を任せて怒鳴りつけると、それまで笑顔だった和弥が、急に真剣な顔つきに変わった。
「いいえ、先輩はどこから見ても女の子です。本当の藤先輩よりずっと女らしくて、そこらにいる女よりも、ずっと可愛い。それが、いまの鷹広先輩なのであります!」
「んなっ……」
 顔がカァッと熱くなる。
 いろんな人から何度も言われてきたことだが、真面目な顔でストレートに言われたのは、これが初めてだ。
 自分はあくまで男だと言い張るのも忘れ、大きな照れに襲われる。なんだか大変もどかしい。嬉しさと怒りが混ざったような、そんな――いや待て、しっかりしろ! 女らしいとか言われて嬉しがるな、俺!
「だいたい、先輩がいけないのであります! 男の中の男だったくせに、女になった途端、そんなに可愛くなるから!」
「ちょ、ちょっと待て! いろいろ待て!」
 語彙をしどろもどろさせながら、ヒートアップし始める和弥を制する。男の中の男という和弥にとって最上級の称号をもらってはいるが、そもそも俺は自分がそんな風に見られるようなことをした覚えなど、これっぽっちもなかった。
「忘れてしまったのですか、あの、夏の日の感動を!」
 なぜだかミュージカルじみた口調で、和弥はやたらと気合の入った身振り手振りをつけて一気にまくし立てた。
 去年の夏、まだ野球部で活躍していた頃、俺はとある試合で九回裏での逆転ホームランを決めた。その逆転劇が、たまたま観に来ていた和弥に深い感動を与え、俺は尊敬されたらしい。
 …………それだけだった。
「窮地を覆す結果を伴う心意気。あれこそ、自分が目標とする真の男の姿でした。自分はあんな男の隣に立ちたい。ただそれだけを思いこの学校に入ったのであります! ところが、すでに先輩は野球をやめてしまわれていた。あろうことか、妙な噂のある写真部に入っていた! そのとき自分が受けたショックがわかりますか!」
 ちっともわからん。
 一方で、なんとなく話は見えてきた。
 単純な話、尊敬していた男が妙な下馬評のある写真部にいる、ということが気に食わないのだろう。
「つまりなんだ? お前は俺に野球部に戻れってのか。それがお前の大事な話か?」
「ええ。最初は、それだけのつもりでした」
「最初は?」
 怪訝な顔で返すと、和弥は口元の片側だけを吊り上げ、まるで盤上の駒を見つめるような目つきで俺を見下した。熱くなったり策士を気取ってみたりと、いちいち忙しい美少女ヅラだ。
「あのカメラがなければ、先輩達は元に戻れないんですよね?」
「お前っ!」
 話の雲行きが、最悪の方向へ進んで行くのを肌で感じる。
「藤先輩をアテにしても無駄ですよ。うちの先輩はああみえて足が速いし、だいいちあのカメラはニセモノなのですから」
「なん、だと?」
「自分、手先は器用だと言ったはずです。ただの箱でも、それっぽく見えましたでしょう?」
 どうやら俺と藤は、まんまと踊らされたらしい。おそらく本物のカメラは、和弥がどこかに隠しているのだろう。
 完全にやられた。
「そう、鷹広先輩が一人になるこのときを、自分は待っていました!」
 体育館の壁越しに聞こえる演劇部にも負けず劣らずの、芝居がかった調子で声を張り上げる。
「自分の要求は、二択なのであります!」
 目潰しのような勢いで突き出された二本の指が、目の前でVの字を作った。
「一つは、鷹広先輩がさっき言った通り、野球部に戻ることです」
「断ると言ったら?」
「もちろん、その場合はもう一つの方を選んでもらいます!」
 そこまで言うと、それまでペラペラと動いていた小さな口が、なぜか笑みを浮かべたままピクリともしなくなった。
「おい?」
 先を促すと、和弥はいきなり大股を開き、両手の拳を握り締めると、前屈みになって俺を睨みつけてくる。
「自分はっ!」
 得意の大声が上がり、にわかに力強い意気込みがビリビリと伝わってきた。
 その気迫に身構える暇もなく、和弥の主張が叫ばれる。
「先輩のことが! 大っっっっ好きであります!」
「……は?」
「カメラを返して欲しかったら、このまま女として生きて、そして自分と付き合ってください! それが、もう一つの選択であります!」
「いや、その理屈はおかしい!」
 この男は、なんのためにカメラを返すのかわかっていないんだろうか。
「お前はなんだ、男が好きなのか! なら応援部の先輩で我慢しろ!」
「お断りであります! 自分は、先輩じゃなきゃだめなんですっ! 先輩相手だから、こんな気持ちになったのです!」
 見事な口説き文句だが、明らかに相手を間違えている。
「待て待ていいから待て! お前は疲れているんだ。落ち着けそして頭を冷やせ!」
「否ッ。自分は超KOOLでありますよ!」
 絶対嘘だよコイツ。超とか言ってるし。それからKじゃなくてCだ。
「野球部に戻るか、自分と付き合うか! 簡単な二択です!」
「どこをどうしたら簡単に思えるんだよこのアホ!」
 今更野球部に戻ったところで、前のようにやれるはずがない。いっそ辞めた理由をここで明かしてやれば、和弥は情けない俺に幻滅し、男の中の男だとかいう称号を剥奪してくれるかもしれない。
 問題は、それでもまだ俺のことを好きだとほざいてくる場合だ。まったくもっておぞましいことだが、和弥は女らしくて可愛い、などと言われているいま現在の俺をターゲットにしている。
 俺はあくまで俺であり、身体が女になったからといって考え方は何も変わっていないつもりだ。歩くときに右足を出そうとか考えて動いているわけではないのと同じように俺のこれまでの仕草は全部、藤の身体が無意識にやっていることなのである――と、それを説明したくとも、和弥はまだ俺のターンは終わっていないぜと言わんばかりに、ひたすら喋り続けた。
「やっぱり、部長殿でありますか」
「あ?」
 どうしてこのタイミングで、夕香先輩が出てくる?
「部長殿が好きだから、自分と付き合う気にはなれないのですね!」
「んなっ!」
 身体中の血液が、高速で巡り、全身がカァッと熱くなる。
「お、お前っ、どうしてそんなことまで」
「あんな人の、どこがいいのですか! あの人はデートのときも奨励祭のときも、肌身離さずマントと仮面をつける、服装倒錯者なのですよ! 先輩だってわかっているのに、どうして、そんな人がまだ好きなのですか!」
「べ、別に、変な格好してても迷惑はかけていない!」
「いいえ、かけていますっ! 目ざわりなのであります!」
「な……ん、だと?」
 言葉を選ばない和弥のきっぱりはっきりとしたその物言いは、俺の何かをプッツンと切った。
 さっきまで気持ちの全土を支配していた照れとかそういったものは引っ込み、代わりに黒い気分が膨れ上がっていく。
「お前は、先輩をそういう風に思っていたわけか?」
「正直、不愉快な変人であります!」
「そうかよ」
 なぜか、俺は妙に落ち着いていた。
 先輩は、怪人をモチーフにした衣装を着て平然と校内外問わず歩き回るような人だ。言動も藤の幼馴染というだけあって奇妙なものが目立ち、とある友人の談によれば『美人ではあるが、変な人だし知り合いにはなりたくない。胸も小さいし、俺的には大和サイズがど真ん中』と、聞いてもいないことまで併せて語っていた。
 学校中の誰もが知り、誰もが言っている。坂上夕香は、変人だと。
 先輩に惚れている俺も認めていることだけに、彼女を貶す言葉にそれを使われてしまうと何も言えなくなってしまう。
 しかしこの瞬間、ようやく返す言葉が見つかった。
「変な人なのは間違いないし、否定はしない。けど、本当に先輩はそれだけの人だと思っているのか? 変なことしかしない、生粋の変人だと? んなわけねぇだろ!」

 幼馴染の看病をしに家へ上がり込み、夜中になっても嫌な顔一つせずに看ていてくれる優しい人で。
 弱い自分を見せないように苦手な雷にも平静を装う、ほほえましいぐらいに意地っ張りで。
 無表情が多いけれど、たまに笑うととても可愛くて。
 そんな彼女に、俺はますます惚れていった。
 目ざわりだなんて、あるはずがない。

「不愉快だ? 相手のことを知ろうともしないで、よくそんなこと言えるなおい」
 こんなことを言う俺だって、先輩とは二ヶ月にも満たない付き合いでしかない。それでも、たくさんのことを知ることができた。
 非常識なカメラの効能が生み出した結果ではあるが、知るべき魅力は他にももっと隠されていると思う。
 だからその言葉は、自分自身に向けて言った台詞でもあった。
 先輩のことを、本当の自分で知っていきたい。だから俺はこれからも写真部に通い、あの人に会いに行く。
 野球部には戻らないし、和弥の恋人になる気など、ひとかけらさえない。
「先輩はな、カメラのことになると見境ないし、TPOなんか考えずに変な格好をするし、部長らしいこともほとんどせずにカタログを読み耽っている。不器用なくせに、自分は器用だとか言い張る! でも、それだけの人じゃないんだ!」
「そんなダメ女なんて見捨てて、野球部に戻ってください! もしくは自分と付き合ってください! 『はい』か『イエス』か『喜んで』で!」
「答えは『ノー』か『いいえ』か『さっさと失せろベイビー』だ!」
「なぜっ、なぜなのですかっ!」

「俺が、夕香先輩を好きだからに決まってんだろうがぁ!」

 力いっぱい叫んだその瞬間、いろんなものがすっきりとした。
 理屈じゃない。細かい理由も説明もいらない。
 笑顔を見るのは嬉しい。
 会えなくなるのはイヤ。
 男のときも、女になってからも。奇妙な言動に振り回されることがあっても。
 この気持ちだけは、いつだって変わることはなかった。
「……そんなの、認めませんっ」
「おわっ」
 いきなり手首を掴み掛かられ、そのままの勢いで体育館の外壁に叩きつけられる。
 手首を拘束する力は、さっきよりさらに強い。痛みに顔をしかめていると、眉を吊り上げた和弥の顔が目の前に迫ってきた。
「よく見てください。自分が、あの部長のどこに劣りますか? 女装しても男とは気付かれないこの愛くるしい顔。そのくせ男を感じさせるこの力強さ。そして先輩を想う、この心! すべて、あんな女より自分の方が上ですっ。望みの薄い変人のことなんか、いますぐ忘れるべきなのです!」
「くくっ、言ってくれるじゃないか」
「………………は?」
 いまのは、俺の台詞ではない。
 同じことは思っていたし、女の声だったけれども、この抑揚の低い静かな口調は、聞き間違えようもなかった。
 和弥が錆びたボルトを無理矢理捻るように、ゆっくりゆっくり首を回す。同時に、俺の視界もひらけ──そこには、俺が心の底から惚れ込んだ、仮面に黒マントの女の子が、腕を組んで佇んでいた。
「ゆ、夕香、先輩?」
「やあ、鷹広くん。話はだいたい聞かせてもらったよ」
 ずんぶんと久しく感じるその呼び方には、ショックを受けるよりもむしろ深い安心に似た感動を覚えた。
 バレてしまったと焦る心はまったくといっていいほど湧いてこない。
 むしろその逆。不思議なほど落ち着いている。
 正体を知った上で先輩は気さくに、表情にはあの微笑んでいるのだかいないのだか判別の付きづらい笑みを添えて、俺の名前を呼んでくれた。
 たったそれだけで、不安で淀んでいた気持ちが、一気に晴れていく。
「でも、どうしてここが」
「その説明は後だ」
「そーゆーこと」
 先輩の後ろには藤もいた。こちらはわかりやすいほどに殺気を漲らせ、拳をパキパキと鳴らしている。
「さて、なごやーん。ずいぶんと夕香センパイのこと、好き勝手言ってくれたねぇ?」
「た、鷹広先輩だって、似たようなこと言ってたじゃないですかっ」
「それはセンパイに任せる。なごやんの処分は、あたしが担当っ!」
「ひぃっ! そそそれ以上近づいたら、鷹広先輩にキスしますっ」
「うげっ」
 和弥との顔の距離が、ますます近くなった。
 身体はまだ拘束されている。どんなに藤が素早く動いたとしても、この距離ではあいつの拳が届くより先に、俺が唇を奪われてしまう。ってか、いやマジでシャレにならんって、この状況。
「タカくーん、刺し違える覚悟はあるよねー?」
 見捨てられた?!
「あああ、あと、それ以上近づいたら! 絶対にカメラは返しません!」
「っとと……。こ、この卑怯者!」
 藤の殺気が急速に消えていく。完全に小悪党な台詞だったが、それでも人質を盾にするやり方よりは、ずっと効果があったらしい。
 この場にいる人間で、カメラの在り処を知っているのは和弥だけだ。その上、機体の安否すらもこの男の気持ち一つにかかっている。
 こちらが取れる手段は言うことを聞くか、隙を突いて仕掛けるか。二つに一つだった。
「ふ、ふふふ。さぁ先輩っ、いまこそ返事を!」
 お願いを受け入れて、野球部に戻る。それが、この場を一番丸く治められる方法だが、そうすると写真部は再び廃部の危機に瀕してしまうだろうし、何より俺が先輩と過ごす時間がなくなってしまう。だが、このままいたずらに時間を浪費して、取り返しがつかないことになるよりはマシだ。
 ……ごめん、夕香先輩。
 チラリと先輩を見やると、彼女の口元には、どういうわけか微笑みが浮かんでいた。
「うん。ちょっといいかな、和弥くん?」
 殺伐とした、一触即発な空気の中で、ありえないほど清涼な声が上がる。
「キミが、さっき言ったことはあながち間違いではない。キミは確かに可愛いし、私は公言こそしていないが自分が変わり者だと言われていることは自覚している。目ざわりだの不愉快だのと言われても、遺憾ではあるがまあ仕方ないとしよう。だが、そんな私も一応、年頃の女の子というジャンルに該当するわけだ。わかるかな?」
「あ、あれぇ? 夕香センパイ?」
「先、輩……?」
 少なくとも、カメラの講釈以外でここまで饒舌になる先輩の頭の中が現在どういう状態なのか、それがわからないほど俺達は浅い付き合いじゃない。
「私はキミと比べてさまざまなものが劣ると。そう言ったね? 顔立ちの良さも、力強さも、人を想う気持ちも、全てがキミに劣ると。ははははは」
 聞いているだけで干からびてしまいそうな乾いた笑い声が、予感を確信に変えた。
 間違いなく、しかもめちゃくちゃに、彼女は怒っている。
 先輩は怒りが大きければ大きいほどわかりやすい笑顔を見せ、次の行動を予測不可能にする。だがそれがわかっていない和弥は、あろうことか挑発に出た。
「その通りです! 自分は何一つとして、部長殿に負けません!」
「ふっはははははははは、いやいや、見事だ。素晴らしい自信だ」
 仮面を手のひらで覆い、平たい胸を反り返らせて、父・キョウスケのような笑い方をする。もはや、一見平静を保った笑みを浮かべる余裕すらなくしているようだ。
「だがね、私には一つだけ、負けたくないものがある。それをいまから教えてあげよう」
 足元の雑草を揺らして俺達に近づいてくる。逆らえない雰囲気を感じ取ったのか、肩に先輩の手が添えられると、和弥はまるで振り払われた暖簾のように、ゆっくりとした動作で俺から離れていった。
 和弥に代わり、夕香先輩が正面に立つ。
 男のときならば旋毛が見えていた身長差も、いまの身体ではあまり視線に斜度は必要ない。
「私は、鷹広くんを想っている。この場にいる、誰よりもだ」
「え」
 回りくどいその台詞に戸惑っていると、鼻先の触れ合いそうな距離まで顔が寄せられ、俺の目が先輩で占められる。
 視界の端で、不釣合いなほど大きい黒マントがなびくのが垣間見えた。
 ハーフマスクが剥ぎ取られ、眉の吊りあがった真剣な顔が露わになる。
 湯あたりでもしたのかと思わせるほど、真っ赤になっていた。
「つまり私は……キミが好きだ」
 頬を赤で塗りたくったような顔で聞かされる、ストレートな先輩の言葉。それに驚くヒマもなく、次の驚きが襲来する。
 両手が俺の頬を挟み、頭の向きが固定された。
 やや遅れて、柔らかな感触が、唇に伝わる。
 頭の中が真っ白にスパークし、全ての情報がスローモーションになる。
「ひゃああああああああああああああっ!」
「のおおおおおおおおおおおおおおうっ!」

 阿鼻叫喚の悲鳴が、別々の方向から湧き上がった。
 顔は両手で挟み込まれ、真正面には目を閉じたまま零距離を変えようとしない先輩がいるため、周りの状況は音だけが頼りだ。
「うおおおおおおおおおおおおおおおっ?」
「きゃああああああああああああああっ!」
 歓喜と驚愕が混ぜ合わさった悲鳴が、さらに追加される。
 そんなことより、至近距離で見るメガネなしの先輩はとても綺麗だ。改めて惚れてしまうね。目を閉じているからか、なんか余計に色っぽいよ。カニとかタコみたいな色してるけど。
「う、うぐ、うぐっ、うわあああああああああああん!」
 和弥の声は徐々に嗚咽を含み、最後にはドップラー効果を発生させながら遠ざかっていった。
「はふぅ……ゾクゾク〜」
 藤は完全に骨抜きになった発声法を使い、語尾をおもむろに弱らせていく。
 そうなってから、ようやく他の五感と思考力が働き始めた。
 唇から伝わる温もりが……感触が……っ!
 …………ありゃ?
「ふむ」
 残された音が体育館からの盛大なカーテンコールだけとなり、夕香先輩がうっすらとまぶたを開く。顔色は、すっかりいつもの白さを取り戻していた。
 俺は、そんな先輩に何も言えない。あまりにも突然すぎる出来事に、声を出すことさえ忘れていた。というわけでは、残念ながらない。
「むーぐ、むんごぅ?」
 文字通り、何か言おうとしても、それを言葉にできなかったのだ。
「ふふっ、すまない。すぐに剥がす」
 不敵な笑みを浮かべ、顔を挟んでいた手で俺の頬を引っ張る。正確に言えば、頬を引っ張ったのは先輩の手ではない。
「ひて、ひてててて」
「君も男なら我慢したまえ」
 ベリッと何かを引き剥がす粘っこい音がする。
 先輩の手には、茶色の粘着テープが――つい先ほどまで、この口にべったりと貼り付いていたガムテープの切れ端が、摘まれていた。
「な、何するんですかっ!」
 自然と目線が先輩の唇へと移動してしまいそうになり、慌ててそっぽを向く。
 ガムテープ越しとは言え、感触はしっかりと伝わっていた。
 唇だけではない。鼻先はほろ甘い香りをとらえ、目は伏せられた長いまつげの数まで覚えている。
 心臓はドキドキどころか、寺の坊主が除夜の鐘を一秒間に十回鳴らそうとトチ狂ったような勢いで早鐘を打っていた。
「迫真の演技だったろう? 和弥くんは泣いて逃げ、藤くんはこの通り気絶している」
 俺がこんな状態でいるというのに、先輩はあくまで平然と、むしろこの状況を作り出したことを誇らしげにさえ語って見せる。
 いくらなんでもと思うが、いまのガムテープキスは雰囲気を変えるためだけの、パフォーマンスとしての意味合いしかなかったという気すらしてきた。
 なんだったんだ、結局……。
 好きという想いは変わらないし、先輩のことをもっと知っていきたいという気持ちも同じままだ。しかし雰囲気作りのためだけにキスをされた、などという事実を突きつけられようものならば、その直前に聞いた先輩の台詞さえ信じられなくなってしまいそうだった。
「なんだか不満気だね。和弥くんのあの様子なら、おそらくカメラは返してくれるさ」
 泣いて逃げた狡猾な後輩を見ておいて、どうしてそういう自信が出てくるのかもわからない。
 それでもやはり何も言えず、俺は黒マントの内側からガムテープの束を取り出す夕香先輩をちらちらと盗み見ることしかできなかった。
「無事キミらが元の身体に戻ったそのときは、これ抜きでしたいものだね」
「へ?」
 きょとんとする俺を見つめ返し、先輩は言葉を続ける。
「好きだと言ってくれたキミの言葉に嘘偽りはない。だろう?」
 すかさず、頷いた。
 脳がシェイクされ、くらり、と立ちくらみに襲われる。そんな俺を澄んだ笑顔で見つめたまま、先輩は穏やかな口調で静かに唇を開いた。
「私は、そんなキミの想いに応えたくなった。……まぁ、和弥くんに失礼なことを言われていたから、意地になってしまったというのもあるけどね」
 どこか、照れくさそうに言う。この人はもしかしたら、変人ではなくただの意地っ張りなのかもしれない。
「でも、なんでガムテープなんて……それに、あんな器用な真似が先輩に」
「いつも言っているだろう。私は、本当はとても器用なんだと」
「いや、あの、そうじゃなくて」
 俺は先輩が好きで、先輩もそれと同じで。ならば、ガムテープ越しでなく直の方が望ましかったと、贅沢にもそんなことを思った。
「外見にこだわらないとはいえ、ささやかな望みぐらいは叶えたいじゃないか」
 俺の心を読んだのか、苦笑いを混じらせながらそんなこと言い、地面に横たわる藤を一瞥する。
 なんとなく、俺もその視線を追った。
 どうでもいいが、ニヤケたまま気絶する人間など初めて見る。なんでお前がそんなに喜んでいるのだというぐらいに、藤は俺の顔をふにゃふにゃにしていた。
 いますぐ叩き起こしたくなる衝動に駆られるが、それより先に、先輩の視線がこちら側に戻る。
「初めては、本当のキミと交わしたい。……不服、だったかな?」
 だらしなさの骨頂を見せる藤と対照的な、その微笑みは。
 憤怒の証であるあからさまな作り笑顔でも、注意しなければ気付かないような曖昧な笑みでもなく。
 頬をほのかに赤く染めた、甘くて愛らしい、照れ笑いだった。

        *        *        *

「うーん……」
 俺は約二週間ぶりとなる男子の制服に多少の違和感を覚えながら、日の当たる渡り廊下を歩いていた。
 どうやらだいぶスカートに慣れてしまったらしいが、そのうち元に戻るだろう。まったく、慣れというものは恐ろしい。どんな状況でもしばらく経てば、やがてそれが普通に思えてくる。
 しかし、しかしだ。
「どうかしたのかい?」
「あー、な、なんでもないです」
 俺のすぐ隣に、夕香先輩がいる。この状況だけは、そのうち慣れるという気がまったくしなかった。


 夕香先輩は奨励祭が始まる前から、なんとなく俺と藤が入れ替わっているのではと勘付いていたらしい。
 はじめは写真うつりなどといった些細な違和感からだったが、確信を得たのはあの誕生日の一件だという。
 ケーキを作ってきたこともそうだが、一番の決め手になったのは先輩が言うところの、俺の鋭い洞察力とやらだった。ふとした仕草やちょっとした表情の変化を見逃さず、的確に自分の意中をつける人間は俺の他に出会ったことがない。と、少しばかり注意して見ていれば誰だってわかることを、先輩はそんな言葉で褒めてくれた。
 しかしまさか、身体が入れ替わったのかなどと直接本人に尋ねられるはずもない。表では平静を装いながら、どうすればいいのかとずっと悩んでいたのだそうだ。
 ところが奨励祭当日になり、あの痩せ枯れ男を追跡していた藤を見かけたことで、その悩みは解決の兆しを見せる。
 さすがというかなんというか、先輩は一目であの男のカメラがただのハリボテであることを見破り、そんなものを必死で追いかける俺≠呼び止めた。
 おそらく、焦りもあったのだろう。藤は夕香先輩に全ての事情を話し、協力をお願いする。ブレーンが加わったことで痩せ男の捕獲は和弥が予想した以上に素早く終わり、男の口から黒幕とその居場所を白状させるまでに至ったらしい。
 ……どんな手を使ったかは、あえて聞かないで置いた。
 ともあれ、そのあとは知っての通りだ。
 藤と一緒に体育館裏へやってきた先輩は、自分の陰口を叩く和弥に一矢報いるため、学校一の頭脳をフル回転させ、例のガムテープキス作戦を実行したのである。

 明けて、翌日。
 俺はいま、祭りの二日目を夕香先輩と二人で回っていた。


「次、どこに行きます?」
 私服と制服が入り乱れる廊下を二人並んで歩き、奨励祭のパンフレットを広げる。雨樋学園奨励祭というのが正式名なだけあってか、それぞれで行われる出し物はやたらと気合が入っていて、どれもが一目置ける内容をしていた。
「和弥くんのところはどうだい? エールを送ってくれるらしいよ」
「絶対イヤです」
 和弥とは、しばらく会いたくない。
 といっても奨励祭が終わり、部活が再開される頃になれば、イヤでも顔を合わせることになるだろう。
 あのガムテープキスからおよそ三十分後、カメラは必ず返してくれるという夕香先輩の言葉を信じ、そのときを待ちながら美術室で撤収作業をしていると、泣きはらした顔の和弥が現れた。
 それからたった一言、『男らしくなかった』と頭を下げると、入部届けとカメラを押し付けるように渡してきた。
 いまだに出されていなかった和弥の入部届。
 入部の理由という枠内には、《愛のために》と、およそ自分には諦めの二文字は存在していないのだと自己主張する一言が綴られていた。こんなものは細かく千切ってゴミ箱行きだと思ったが、先輩はその入部届を快く受理したのである。
 まったく、あれだけ怒っていたのに、心が広いというか、お人よしというか。

 ともかく、俺と藤は、そうして入部届けに添えられるような形で戻ってきたカメラを使い、ようやく本来の身体を取り戻した。
 あのクラシックカメラには、やはり撮った人間とその被写体を入れ替える力があったわけだ。
 厄介なことに、夕香先輩がその常識を度外視したカメラに興味を示してしまい、一度でいいから使わせてくれなどと言い始めたのだが、
『センパイの身体がセンパイ以外に使われるなんてイヤァァァーーーーーっ!』
『同感だそれは認められない。お願いですから、変なこと考えないで下さい!』
 という、俺達二人の必死の説得により、どうにか諦めさせた。
 本当なら壊すなり捨てるなりしたかったのだが、それだけはやめてくれと涙目で頼まれてしまえば、先輩に弱い俺達にできることはカメラを直した修理屋に引き取らせるぐらいが精一杯だった。売らず使わず、飾るだけにしてくれと念入りに頼んだから、あとはあの店主の人柄を信じるしかない。
 そうして、約半月ぶりに戻ってきた俺の部屋はといえば、目眩のするような第二のゴミルームへと進化を遂げていたのであった。


「まったく、どこも面白そうで目移りしてしまうね」
 俺に身を寄せるようにして地図を覗き込みながら、夕香先輩は小さな吐息を漏らした。
「っていっても、先輩は今年で三回目でしょう。どれもそんなに代わり映えしてないんじゃないですか?」
「ふん。愛しい人が傍にいれば、何もかもが新鮮に見えるものさ」
 口を尖らせて、ほんの少し拗ねたように言う。それがたまらなく可愛らしく、同時に、恥ずかしいことを言われてしまったと理解し、顔が熱くなった。
 この人は恥ずかしがり屋のくせに、ときどきこういうことを言ってくる。
 それで自分も真っ赤になっていては世話がないのだが、まあそれもまた良し。
「あ〜、それよりも次の行き先だっ。じ、時間がもったいない」
「は、はは。そーですね」
 お互いに顔を真っ赤にして、俺達は再び視線を手元に移した。
 一週間前とは違う、どこかぎこちない、けれども心地のいい雰囲気を感じながら、感慨深く思う。
 やはり、告白してよかった。
 いろいろと悩んだが、結局のところ行き着く想いは一緒だと気付き、俺はなけなしの勇気を振り絞って、改めて先輩に自分の気持ちを伝えたのだった。
 そうして、俺達は晴れて彼氏彼女の関係へとランクアップした。とはいってもやはりまだ、いろいろとぎくしゃくしている。
 約束していたガムテープなしのキスも、この調子では当分果たせそうになかった。むしろお互い、そのことには触れずにいようと心掛けているフシさえある。
 俺も先輩も奥手で、この先どうなることやらと思わなくもないが……そんな、一気に幸福が舞い込んで来てもなんだか不安になるだろう。
 いまはただ、二人でいるこの幸せを、じっくりと噛み締めていくだけだ。

「うぬぁああああああああああっ!」
 二年のクラスが並んだ廊下に来ると、発情期の猫のような声がどこかの教室から湧き上がった。かと思うといきなり窓ガラスが開き、パレオと胸を揺らしながら、赤いマイクロミニのチャイナドレスが窓枠を乗り越える。
「ふ、藤くん? いったい何が……」
「えぅ? あ、センパ」
 先輩が至極当然の疑問をぶつけようとした矢先、藤の飛び出してきた教室が今度はドアを開き、青いチャイナドレスの少女を排出した。
「やぁん、来たぁぁっ!」
「ふぅ〜じちゃぁん! むわてぇぇい!」
「げっ、大和」
 なんとなく一文字足りない気がする名前を叫びながら、青いチャイナ娘は怪盗を追いかける刑事のような走り方で、片手を上げて突進してくる。
「藤くん、何があったんだい?」
「えっと、あのその、センパイも逃げてぇっ!」
「うん?」
 一方的にそう言い、藤はそのまま走り去っていった。本人にしてみれば背後から追跡者が迫っているというのに、悠長に説明しているヒマなどあるはずがない。それはわかるが、いきなり男の身体になっても平然としていた女が、ここまで慌てている理由に興味が出てきた。
「むっ、坂上先輩! それに、あなたか」
 大和の目は夕香先輩をロックオンし、ついでにといった感じで俺に、どうしてか憐憫を含んだ眼差しをよこしてくる。
「藤は……ああもう、逃げ足速いなぁ。じゃあ、代わりに先輩でいいです。答えてください」
 何が『じゃあ』なんだか、さっぱりわからん。
 確実に面倒ごとが待ち構えているっぽいが、漠然としすぎているせいか、忠告されたにもかかわらず、いますぐ逃げなくてはというほどの気がしない。
 それは、すぐに後悔する。
「ぶっちゃけ、先輩は自分が人と少し違うなって思ったことありますかっ。たとえば、好きな人はちょっと普通じゃないとか!」
「んなっ!」
 レポーターのつもりか、大和は拳をマイクに見立てて突撃インタビューを始めた。
 質問の意図も、その裏にあるだろうもくろみも、そしてこのテンションすら理解できず、俺はただ目を剥いて事の成り行きを見守る。
「う……うー」
 夕香先輩もいきなりすぎるその質問にしどろもどろとし、目を細め、隣にいる俺を見上げ、俯くまでの一連の動作を瞬きする間に終わらせると、それからほのかに顔を赤く染めた。
「ま、まぁ、そう思わなくもない」
 異議あり。
「先輩、俺は普通」
「やっぱりですか。私の見たアレは、やっぱり見間違いじゃなかったのね!」
 俺の言葉を押しのけ、どんなに短く切っていようとも爪が手のひらに食い込んでいるとわかるぐらい強く拳を握り締めながら、大和が全身から喜びのオーラを発散させる。
 これまで百発百中の、悪い予感が再来した。そしてそれは、藤になっているときだけに備わっていた特殊能力ではなかったらしい。
「すごいわっ! 女の子が好きな女の子は、本当にいたんだ!」
 伝説の空中都市を見つけたようなはしゃぎっぷりで、声を高らかにしてそう叫んだ。その瞬間まるで心霊現象か何かみたいに、窓という窓、ドアというドアが勢いよく一斉に開け放たれた。
 ここら一帯がお化け屋敷にでもなったのか、目目連のような無数の視線が夕香先輩に注がれる。
「う……っ」
 先輩の顔色が一気に炎上した。
 好奇の目に対する恥ずかしさなど、失礼ながらどこかに置き忘れているとばかり思っていたのだが……いや、先輩が可愛いのはひとまず置いておいて、なんでそんなわけのわからん誤解をしているのか大和に問いたださなくてはならない。ガラリと変わった、先輩への態度も含めてだ。
「おい、お前なんか勘違いしてるだろ?」
「うぅっ、可哀相なカモフラ彼氏。あんたのカノジョは、坂上先輩とデキていたのよっ」
 カノジョっていうのは、もしや藤のことか。
 そこも誤解しっぱなしなのか。ええい、面倒くさい。
「現実を認めなさい、カモフラ彼氏。坂上先輩は、昨日、体育館裏で藤とキスしていたのよっ!」
「ぉおっと、そうきたか」
 どうやらあれを見られていたらしい。
 確かにあのとき、聞こえてくる叫び声が一つか二つ増えていた気がしていたが、それは幻聴などではなかったようだ。
「落ち込みなさい、カモフラ彼氏。私の胸は貸さないけどね。武蔵だけのものだからっ、って、何言わせるのよもぅっ、きゃーきゃー♪」
 勝手に赤くなって、うねうねとしか言いようのない奇妙な動きを見せる。
 ってかお前等、前に聞いたときは付き合ってないとか言ってなかったか?
「あ、あのなぁ」
 ツッコミどころはたくさんあるが、とりあえずまずは、俺が藤の彼氏でしかもカモフラージュにされていたとかいう、実に不愉快極まる誤解を打ち消すため口を開く。が、その前に、服の袖がくいっと引っ張られた。
「鷹広くん」
「先輩?」
 ぼそぼそと、俺にだけ聞こえる声で上目遣いに話す。大和はいまだきゃーきゃーと舞い上がっているためか、俺達の様子を気にかけてくる素振りはない。
「ゴシップに舞い上がった人間は、人の話を聞くと思うかい?」
「……自分らに都合のいい単語だけなら、拾うでしょうね」
「となれば、あとはわかるね?」
「了解」
 言うが早いか、俺達はきびすを返し、手と手を取り合って走り出した。
「きゃー……ああっ! こら待てぇ!」
 ワンパターンな追跡者の台詞を背中で聞きながら、俺は夕香先輩に手を引かれ、視線の嵐の中を駆け抜けていく。
 ……うん?
 手を引く役、逆じゃね?


 写真部へと転がり込み、どうにか大和の追跡を振り切る。
 先輩はずっと俺を先導していたためか、全ての力を使い果たしたように雑誌の壁にもたれかかってぐったりとしていた。
「ったくもー。どうするんですか」
「はーはー……ふ、ふふふ。ウカツな女と笑うがいい。まさか、あれを和弥くんら以外に見られていたとは、思っていなかった」
 和弥と、ついでに藤を撃沈させたあのキスの真実は、二人だけの秘密にしていた。わざわざ本当のことを言う必要は感じなかったし、何よりもガムテープ越しなどというマヌケな感じのためか、照れくささが先立ってしまう。
 余計な混乱を招くことにもなると思い黙っていたが、こうなればさっさとネタバラシをしたほうが平和になるんじゃないか?
「いいや。ガムテープ越しとはいえ、私が藤くん≠フ唇に迫ったことは間違いないんだ。そこをどう説明する?」
「ああ、そっか。そうですね」
 未遂でもなんでも、傍目にはどう考えても事故には見えない体勢で、夕香先輩が藤にキスをしていたのだ。
 まさか全部話すわけにもいかない。仮に信じてくれたらくれたで、不可抗力とはいえ体育の着替えなどを共にした俺は、大和やその他女子グループによってボロ雑巾にされてしまう。
「まあ、悲観することはない。先人の言葉によれば、人の噂は七十五日で消滅するらしいよ」
「って、あと二ヶ月半もあるじゃないですか」
「夏休みに入っているね。山にでも行くかい?」
「夏は海です、水着ですっ。って、話を逸らさないで下さい!」
「うぅむ、水着はちょっと……」
 俺の妄言を真に受けて、自分の胸元を覗き込む。
 大丈夫です、大きさは関係ないっていうか、しばらく巨乳はノーサンキューなんで!
「それはそうとだな、キミはいま、もっと違うことを気にすべきだと思うよ」
「へ?」
「だから、その……」
 もじもじする。先輩がそんな風に言い渋るのを見ると、にわかに、昨日の体育館裏での一件が思い出された。
「ふ、二人きりだよね?」
「は、はい」
 先輩の緊張が、こちらにも伝わってくる。
「わ、私達は、その……こ、恋人同士だね? しかも、できたてほやほやのアツアツだ」
「う……は、はい」
 たぶん、耳まで真っ赤に違いない。ってか、こんな台詞、クールに受け流せるわけがない。
「…………」
「…………」
 しばらくお互い顔を真っ赤にして、視線を合わせたり逸らしたりを繰り返していると、ふいに、先輩はメガネの裏で目元を涼しげに細め、俺をじぃっと見つめてきた。
「赤くなっているキミは、可愛いね」
「ぐぉ……お、俺はもう、女じゃないんですけど?」
「男とか女とか、そんなことは関係ないんじゃないかな。キミには人を惹き付ける魅力がある。だから私も和弥くんも、キミを好きになった」
「…………あぅ」
 ストレートに恥ずかしいことを言われ、言葉に詰まる。
「ふふ、耳まで真っ赤だ。……藤くんにからかわれて赤くなるキミを見ていたときは、正直、嫉妬しか覚えなかったが……なるほど、これはクセになる」
 しないで下さい、とは、俺自身が同じことを先輩にしていたため、あまり大きな声で言えない。
「うん、なんだか勇気が出てきたよ」
「はい?」
 先輩が笑みを浮かべたまま、にじり寄ってくる。
「あ、あの?」
「なぁに、私に全て任せておけばいい」
 くいっと、指でアゴが持ち上げられる。身長差があろうと、床に座っていてはなんの意味もない。それどころか、俺を見下ろして微笑む先輩、という滅多にない構図に目を奪われてしまった。
 さっきのことといい、俺をまるで女扱いしているような行動も、このときばかりは気にならなくなる。藤としての生活にすっかり馴染んでしまったせいか、むしろ嬉しさの方が勝っていた。
「噂の話に戻るが、実はそれはすぐに終わらせることができる」
「……ど、どうやって、です?」
「簡単さ。もっとインパクトのある話題を、彼らに提供してやればいい」
 お互いの吐息の掛かる距離が、縮まっていく。
「なな、なんか性格変わってません?」
「そうかい? もしかしたら、私は誰かと入れ替わってしまったのかもね。そう、例えば、和弥くんと」
 ぞっとしない冗談だ。
「俺は、本物の先輩かそうじゃないかぐらい、わかります」
「ほぅ、では仮に私の中身が和弥くんでないという、その証拠はあるかな?」
「初めから疑わない……じゃ、だめですか?」
 レンズの向こう側で細められた眼差し。それが自分の好きな人のものでないと、どうして思うことができる。
「先輩がどんな姿になっても、俺は、いま一緒にいる先輩が大好きだって。そう言えます」
 言ってから、さまざまな気持ちがカァ〜ッと燃え広がる。この場でゴロゴロとのた打ち回りたくなるような、とてつもなく恥ずかしい台詞だった。
「あ、ありがとう……。〜〜〜っ、き、キミの方こそ、ずいぶん言うようになったじゃないか」
 少しばかり拗ねた口調で、こそばゆそうに微笑む。
 内側からの熱っぽさにそわそわしながら、俺と先輩は、視線を合わせ、逸らし、盗み見しては視線が合い、逸らし、ということを繰り返していった。


 六月になったばかりだというのに、写真部は真夏並みの気温をしている。

 今年の夏は、いつになく暑くなりそうだった。






おわり